第19回 西宮薪能
越木岩神社 平成19年9月21日
第24回 西宮薪能
越木岩神社 平成24年9月21日
「今とても。狩場とあらばなどしも。御心にも掛けざると。
怨み顔にも兄弟は泣く泣く立って出でければ」(謡曲「小袖曾我」)
今回は、曾我兄弟とその母親がどのように思いを違えてゆくか、を紹介したく思います。
狩場での伊東親子への襲撃後、河津三郎の妻(兄弟の母)は夫の遺体を前に嘆き悲しみます。彼がいまわの際に工藤祐経の部下の姿を見た、と言ったことから、妻(母)は幼き日の曾我兄弟、五歳の「一万(いちまん)」と三歳の「箱王(はこおう)」に「二十歳にならざるその前に、祐経が首をとって我に見せよ」と言います。その悲しみは身ごもっていた河津三郎との最後の子を出産してすぐに間引かせようとする程です。ところで、私も三男ですが間引かれるくらいなら誰かに預けてもらって、後は勝手に浮世の夢から覚めてしまえと思わざるをえません。少しきついことを述べてしまったでしょうか。やはり、どんな親でも長生きしてもらいたいとしておきましょう。
さて、母は夫の百ヶ日に尼となる決意すらしますが、舅である伊東祐親の計らいで祐親の甥である曾我太郎祐信と再婚することとなり、幼い二人の兄弟と共に曾我祐信の家に入ります(兄弟が曾我の姓なのはこの為です)。これが段々と母と子の心を違えてゆく契機になるのです
兄弟の母が曾我祐信との新生活に心を落ち着かせていく一方で、九歳の一万は物心ついてから父が死んだ為、継父である曾我祐信に馴染めず、七歳の箱王も物心つくにつれ、父の敵が祐経であることを兄づてに知っていきます。また、伊東家が没落し、曾我の家が裕福でなかったことから馬や狩道具を与えてもらえません。よその家の自分たちより幼い子が狩に行くのを尻目にますます祐経への怨みは募っていきます。
ある時、兄弟は敵討ちの為に子供だましの小弓矢で障子を射抜いて敵討ちの稽古をします。これを聞きつけた母は大いに驚いて兄弟を呼びつけ、敵討ちの心を持つことを強く戒めます。兄弟の立場は世間において謀反人の孫です。それ故に、祐経に謀殺され易く継父への恩をも仇にしてしまう、と必死に子供に言い聞かせます。それでも、兄弟が人目のないところで敵討ちの相談を続けるので母も繰り返し叱りますが、兄弟も段々と人目のつかないところへ場所を移しながら相談を止めません。やがて母は兄弟を離れさせる為、弟の箱王を寺にやることを決意するのです。
母にとって、やっと過去の事にできた人が子供の中に強く居座り続けているのは心底恐ろしかったでしょうが、これこそ幼い子供に自分の心を強く押し付けた母親の罪科に他なりません。子供の精神は親に強く影響されます。いつか自分が子を持ったときにそのことを忘れず居たいものです。
平成24年7月8日 上田顕崇
「箱根の寺に在りし箱王と云ひし えせ者か。
それならば母が出家になれと申しゝを聞かざりし程に勘当せしに」(謡曲「小袖曾我」)
今回は、箱王が母の意に背き勘当されるまでのいきさつを述べたく思います。
さて、いくら敵討ちをやめるように言っても動かない兄弟の心に恐ろしくなった母は兄弟を離れさせる為、箱王を出家させることを決意します。父の供養と母の来世の為に僧になるよう諭された箱王は、母に頼られたことに喜んだのでしょう、感涙して箱根寺へ行き仏道修行に励み、その勤勉さと純真さ故に可愛がられます。
ところが、年の暮れに他の子たちが父母等からの手紙をたくさん貰う中で、自分だけ母の手紙しか来ません。それが亡父への思いを募らせ、鎮まっていた祐経への怨みが鎌首を持ち上げます。今までは毎日毎夜、父母の安世の為に読経していたのが、一転して怨敵降伏の祈りを捧げるようになります。その祈りが届いたのか、源頼朝が箱根権現を訪れた際に、遂に仇の工藤祐経の姿を見つけます。命を狙おうと機会を覗っていた箱王を見つけた祐経は立場の違いを見せ付け、箱王はそれに何もすることができません。思いを遂げられなかったことを悔やみに悔やんだ箱王は、明日が出家という時に寺を抜け出し、兄 十郎祐成のところに行くのです。祐成は箱王が自分の下に帰ってきてくれたことに喜び、北条時政の下で箱王は元服し「曾我五郎時致」となります。
一方、箱王がいなくなったという知らせが母の元にも届き、大騒ぎです。そこへ「箱王が来た」という家の者の声を聞いて、母は喜び出家した箱王の為に誰にも使わせないでおいた莚(むしろ:わら等で編んだ敷物)を用意し、そして現れたのは元服した姿の五郎だったのです。怒った兄弟の母は、見るなり障子を閉めて散々に叱り恨み言を言い、五郎を勘当してしまいます。心のどこかで自分の行動を認めてくれると期待していたのでしょうか、叱られた五郎は傷いたあまり十郎に今からでも出家したいと泣きつきます。それをなだめ慰め、思いとどまらせる十郎は果たして素晴らしい兄なのか、弟を巻き込み利用しているのか、ともかくも五郎にとっての十郎は大変に頼りがいのある兄なのでしょう。
さて、そんなことがあっても兄弟は仇討ちを諦めず、ついに源頼朝が催す富士山の裾野の狩場にて遂に祐経を討つことを企てます。征夷大将軍の主催する狩場で側近の祐経を殺せば、生きて帰ってくるなど、まず無理です。そこで兄弟は心残りである五郎時致の勘当を許してもらう為、今一度母に会い行くのです。
謡曲「小袖曾我」はこの母に会いに行くところから始まります。親の意に背き元服した時致に待っているのは安穏には程遠い行く末です。ある意味、五郎を一番想っていたのは母なのかも知れません。
平成24年9月21日 上田顕崇
「舞のかざしのその暇に。兄弟目を引き。これや限りの親子の契りと」
(謡曲「小袖曾我」)
兄弟は弟の五郎時致の勘当を許してもらう為、母の元へ行く。十郎祐成が顔を見せに行くと喜んでもてなし、五郎時致が行くと家の者すら迎えに出ない。今一度大声で時致が来たと呼ばわれば、時致などという息子は居ないと答える声がする。せめて今一目と走り寄るも御簾を下ろされ顔すら見られず顔すら見ず、その場にて泣き崩れる時致。様子分からぬ祐成が良い頃合だろうと思って手招きすると、目頭を押さえた時致が来る。更に母は祐成が時致のことをとりなそうとするなら祐成共に勘当すると告げさせる。意を決した祐成は嫌がる時致を無理やり連れて母の前に行き、母へ思いのたけを必死に述べるが、母は見向きもしない。敵有る身で祐成が一人なこと、時致が必要なこと、出家したところで周りから敵から逃れる為だと後ろ指を指されること、時致が父母の為に箱根寺で一生懸命修行を積んだこと、今から狩場に向かうのに、父「河津三郎」も狩場で殺されたのに母は兄弟の身を気にも留めないのか、と遂に十郎は五郎を連れて家から泣く泣く出て行こうとする。思わず母は立ち上がり涙ながらに呼び止め、時致の勘当を許す。祐成は喜び自ら酌をしてまわり、二人で舞を舞い母に別れを告げる。
よく、十郎は敵討ちの旨を兄弟の母にはっきり告げている、母もそれをわかって許したのだという解釈をする人がいます。しかし、典拠(原作)である「曾我物語」では、母は全く敵討ちのことを知りません。全ては兄弟の胸のうちです。このことにおいて、能「小袖曽我」が「曾我物語」に準じていることは、キリ(終わりの謡)「舞のかざしのその暇に兄弟目を引きこれや限りの親子の契りと思えば」からわかります。母親に敵討ちを宣言しているなら、舞の合間に兄弟で目合わせをして母親との最後になる等と思う必要がないのです。
これを前述のように解釈してしまうのは、小袖曽我の十郎祐成の詞がはっきりとではないですが、敵討ちのことを告げているように思わせるものだからでしょう。ここに祐成の母に全てを打ち明けたくとも打ち明けられない葛藤が見え隠れすると捉えるべきです。では、その葛藤を母が見抜いたかどうか、これは母(ツレ)を謡う者次第です。上の解釈の人が見た能は、きっと慈悲深い母の謡を聞いたのでしょう。いつかそういう謡を謡えるようになりたいものです。
平成24年9月21日 上田顕崇