「そもそも光源氏の物語。言葉幽艶を基として…」
豊後の国の僧が男山八幡に参ろうと、都に上って来て、五條辺りへ来ると、女の歌を吟ずる声が聞こえてきます。その女性に所の事を聞くと、ここは、「某(なにがし)の院」であり、昔の融の大臣が住んでいた所であり、また光源氏が夕顔の命をとられた「河原の院」と答えられ、その夕顔の話を語る様に所望します。女は、源氏物語、中にも夕顔の巻の話を始めます。
僧は、所の者の話で、その女は夕顔の幽霊と思い当たり、弔っていると、夕顔が現れ、己の心は濁り江に引かれこの様な身になったが、僧の弔いを受け、迷いもなくなったと喜び、雲に紛れ消え失せます。
能に「幽玄」という言葉が使われます。この言葉については、ややもすると「睡魔が襲ってくる」とも言われてしまいますが、もちろん、もとは違います。学生の頃、習った記憶をたどれば、「美しい」と言うような事でしたが、それだけでもないように思います。
僧が五条辺りで「不思議やなあの屋づまより、女の歌を吟ずる声の聞こえ候。…」。その女の声は、「山の端の心も知らで行く月は、上の空にて影や絶えなん。」「巫山の雲は忽ちに陽臺のもとに消え易く、湘江の雨はしばしばも楚畔の竹を染むるとかや。」(はかない男女の契りを思う詩歌)。これを思い浮かべると、女(シテ)が登場する以前、これだけでも「幽玄」を感じます。
「そもそも光源氏の物語、言葉幽艶を基として…」と始まる、源氏物語、夕顔の巻の話。光源氏が一寸休んだ所で、夕顔から歌を詠み、契りを結んだと語り、ここで夕顔が「もののけ」に取られ、帰らぬ人となったと話すと、その女もかき消すように消えてしまいます。
一晩の間、僧が見た夢は、ゆったりとしており、夢のような現のような時間でありましょう。夕顔がその昔に聞いた隣からの勤行の声、「優婆塞が、行ふ道をしるべにて、来ん世も深き契り絶えすな、契り絶えすな…」と思い舞う「序之舞」は、夕顔の思いのみが漂い、時間の観念が無い様にも思えます。その舞が終わり「お僧の今の弔いを受けて、数々嬉や…」。
夕顔の能にふれて、僧と同じ様に、夢のような、また現のような時に浸り、終わった後、なんとも言えぬ心地になれば、これも「幽玄」であると思います。
平成17年6月11日 上田観正会定式能 上田拓司