熊野

 平宗盛は、寵妾の熊野が老母の病気を理由に暇を乞うのを、この春ばかりの花見の友にしようと、都に留めている。
 熊野の故郷、遠江の国池田の宿からは、度々の使いにも熊野が帰郷しないので、朝顔が老母の文(手紙)を持って迎えに来る。 文には、「何者であろうと生死の掟を逃れ得ない。母の命は、この春の花も待てない程で、心弱い。暫しの暇を賜って今一度会いに帰ってきてほしい。」とある。
 熊野は、朝顔を連れ、文を宗盛の前で読み、暇を乞うが、宗盛は許さず、花見の牛車に同車させて清水へ行く。
 賀茂川の河原おもてを過ぎ、車大路、六波羅蜜寺の地蔵堂、愛宕念仏寺、六道の辻、経書堂、子安の塔を通り、清水に着く。その道中、東山を見ると東方の故郷を思い、地蔵堂では観音も同座しているので母の命を頼み、六道(天上より地獄まで)の辻では、この道は冥土に通う、と不安の気持ちで鳥部山(火葬場がある)を眺め、清水では母の為に祈誓をする。
 宗盛より、酒宴の始まりを知らせてくると、熊野は、花盛りを明るく愛でるが、心は悲しく、諸行無常、生者必滅を謡い、舞う。 村雨が降り花を散らすのを見て、熊野は、「いかにせん都の春も惜しけれど」と歌の上の句を短冊に書き、宗盛に見せ、「馴れし東の花(老母)や散るらん」と下の句を続ける。
 宗盛は、道理なり、哀れなりと思い、暇を許し、熊野は故郷へと旅立つ。
 以上が粗筋ですが、熊野の宗盛の従者、又は朝顔に対する態度から、宿の長(遊女達の主人)ながら、格の高い生活をしていたと思われます。格の高い女性だからこそ宗盛の寵愛を受け、又、熊野もその事に満足していた事でしょう。熊野にとっては、宗盛の許しなしに帰郷する事は、現在の生活を捨てる事になります。
 車の中より見る都の春は、四条五条の橋の上には老若男女貴賤都鄙の人々が色めく花衣を着、袖を連ねて多勢歩いており、桜の花が雲かと思える程咲き、とても華やかな景色です。現代程の暖房設備がない時代ですから、冬は厳しく、人々には春は嬉しい季節だったと思います。心にかかる事のある熊野には、その華やかさが反って辛かった事でしょう。
 酒宴の場でも、清水寺の鐘の音が、祇園精舎(釈迦が説法した寺)の鐘の音の様に諸行無常を思わせ、地主権現の桜の白色が、娑羅雙樹(釈迦の入滅の時枯れて白くなった)を思い出させ生者必滅を表す、と謡います。南方の、大慈大悲の熊野権現を移した今熊野、稲荷、清水をどのような気持ちで眺めたのでしょうか。お酌に立った熊野に、宗盛の「いかに熊野一さし舞い候へ」の言葉は、「深き情けを人や知る」と思わせたのも察せます。、宗盛が暇を許しても、「かくて都にお供せば、またもや御意の変わるべき、ただこのままにお暇」と思うのも、貴人の我儘に対して自然かもしれません。
 しかし東へ帰る途中逢坂で後の山を見て名残りを惜しむのは、やはり都(宗盛)が好きだったのでしょう。