頼政

研和会 16年9月8日(水) 大槻能楽堂

頼政「埋木の花咲く事もなかりしに…」

 源頼政は、平家全盛の「この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と言う様な時代に、犬四位、犬三位などと言われながら過ごした人かと思います。能「頼政」は、その頼政の幽霊が登場し、昔を語ります。
 諸国を旅する僧が、宇治の里で景色を眺めていると、老人が現れ、平等院へ案内します。そして扇の形に刈ってある芝は、昔この所で宮戦があり、名将源三位頼政が扇を敷き自害した所であり、しかも月も日も今日に当ると語ります。そして老人は、自分が頼政の幽霊と言うかと思うと失せてしまいます。
 僧は、偶々やって来た宇治の里の男に、頼政、仲綱の親子が、木の下と言う名馬の事で平宗盛に受けた仕打ちの事などを聞き、頼政の跡を弔います。すると、甲冑を帯した頼政の幽霊が現れ、弔いを喜び、昔の有様を語ります。そして、跡の弔いを頼み、扇の芝の陰に消え失せます。
 頼政が宇治川の合戦で死んだのは七十歳に余ると言います。かなりの老武者です。平家全盛の時代に生き、ついに決起しようとしたが、その前に発覚し、まず三井寺へ、そして奈良へと目指す途中で、宇治川で平家と合戦になり、敗れた人です。その頼政の辞世が「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果ては哀れなりけり」(平家物語諸本、身のなる果てぞ悲しかりける)です。自分が埋木で、花が咲かなかったと言っているのでしょう。甲冑を帯した頼政の幽霊が「あら閻浮、恋しや」と言いますが、自害する時に、さぞ心残りであった事と思います。だから、死後であっても昔を思い出すと心が高ぶるのだと思います。私自身「頼政」の合戦の様を語る時、戦いの騒々しさが聞こえるような気がして、今でも頼政は成仏していないような気がします。敵方の田原の又太郎忠綱が三百余騎を率いて宇治川を渡ってくる有様が、死後も忘れられないのだと感じます。そして、今でも弔いを待っている様に思えます。
 しかし又、頼政という人は、大変な頑固者、ひねくれ者であった様にも感じます。僧に、頼政であるはずの老人から「どうしたの」と声をかけておいて、自分は賤しき宇治の里人だから答えられないと言ったり、本当は、扇の芝を見せて、頼政の事を聞いて欲しい筈なのに、違う所から見せたり。しかし、僧が弔いの言葉を言うと、素直な心になるので、本当は、弔って欲しいのが私には感じられます。気位も高いのでしょう。僧に、源三位の幽霊かと言われ、自分の事を「げにや紅は園生に植えても隠れなし。」と言う程ですから。
 しみじみと色々な人の人生、幸せ、不幸せ、という事を考えさせられている様に思います。

平成16年9月8日 研和会
上田拓司