雪の中を苦労して旅する僧(ワキ)がいます。
この僧侶の素性は、まだ明らかではありません。劇の進行上、僧侶が何者なのか知られていないことがとても重要なのです。ただ、観客の皆さまは知っておかれてもいいでしょう。僧侶は最明寺時頼、北条家五代執権として中期の鎌倉幕府を支えた人物です。出家して執権職を辞した後も幕政の実権を握っていました。というより、いまNHKが放送中の『時宗』の父、渡辺謙が扮していた人物と説明したほうが早いでしょうか。この最明寺時頼の生涯はやや謎めいています。若すぎる(三十歳)出家もそうですが、水戸黄門にも似た諸国行脚の伝説が数多く残され、この「鉢木」の物語もその一つです。
話を戻します。僧は雪深い信濃の国から鎌倉に向う途中、上野(現在の群馬県)の国佐野にたどりつきました。また雪が降ってきます。宿を借りようと、近くの家に頼みます。あらわれた女性(シテツレ・常世の妻)に、夫が戻らなければ返答できないと言われ、やむなく主人の帰りを待ちます。
常世(シテ)が帰ってきました。自らの境遇に鬱屈を感じ、雪の風情を楽しむふうではありません。常世は、修業の僧に宿を請われた事情を妻から聞きますが、かたくなに断ります。自分の暮らしのみすぼらしさを強く恥じているからです。彼は言います、「十八町先に、よい宿がある。日が暮れない内に行きなさい」。僧は、むだに主人の帰りを待ったと、雪の中を出かけていきます。
夫のかたくなな態度を嘆いたのは妻でした。「僧をもてなして後生の功徳を積めべよかったのに」。その言葉に考え直した常世は、僧を呼び戻そうとします。しかし降りしきる雪、声はとどかず、あわてて後を追って僧にお泊りくださいと告げるのでした。
常世の家です。客を迎える支度もありません。かろうじて粗末な粟の飯を用意した常世は、邯鄲盧生の夢の逸話を語り、だが自分は寒さのあまりそんな夢を見る眠りもままならない、と嘆きます。夜も更け、いちだんと寒さは厳しくなってきました。僧に暖を、と思っても燃やす薪がありません。常世は、ふと鉢の木(盆栽の木)が燃やせることを思いつきます。それは、彼が長年趣味にして多くを集め、そのほとんどは譲り渡し、しかし最後まで手元に残し置いた愛蔵の梅桜松の鉢の木でした。
僧は驚き、固く辞退しますが、常世は僧をもてなせば功徳になる、と言いつつ、愛着の心をおさえて梅、桜、松の鉢の木をつぎつぎと切り、燃やしていきます。
暖かくなってきました。僧は主人をひとかどの人物だと感じ、名を尋ねます。彼は、佐野の地を支配していた源左衛門の尉常世だと名乗り、一族に領地を奪われ落ちぶれてしまった身の上を話します。当時、幕府には御家人たちの土地争いを調停する裁判所の機能がありました。常世は、訴訟を起こそうと思ったが折あしく最明寺時頼殿が諸国行脚で不在で上手く行かなかった。しかし、もし鎌倉に事があれば痩せ馬に乗りおんぼろの武具を身にまとってでも一番に馳せ参じて手柄を見せるつもりだ、と気概を込めて語るのです。
夜が明けました。別れぎわに僧は、訴訟のことを諦めるなと言い残し、名残を惜しみつつ旅立っていきます。
場面が変わり、騒然とした雰囲気です。幕府から諸国の武士たちに、武装して鎌倉に集合するよう指令が出されたからです。もちろんその中に常世の姿もありました。
最明寺時頼が登場します。時頼は軍勢の中からもっともみすぼらしい姿をした武者を探し出せ、と家臣に命じます。そのような武者、すなわち常世はすぐに見つかりました。常世は理由がわからいままに、時頼の前に進みます。居並ぶ侍たちの嘲りの笑いにも臆するところはありません。そして、そこで見た時頼こそ、あの一夜の宿を貸した旅の僧でした。
時頼はこの武者集めの意図を明かします。常世つまりは御家人たちの忠誠を試すこと。また訴訟は物事の理非によって公正に判断されること。その手始めに常世の本領を回復し、幕府の姿勢を広く示すことにありました。そしてなお愛蔵の鉢の木を薪に代えてもてなしてくれた礼として、常世に梅松桜にちなんだ名の領地を与えます。常代はこれまでの苦労が報われ、歓び勇んで故郷の佐野に帰るのでした。
神戸学院大学人文学部教授 伊藤茂