邯鄲

平成16年4月29日(祝) 第11回賀茂川荘薪能

「げに何事も一睡の夢」

能には、他の演劇にしばしば見られる、写実的な「大道具」がありません。それに替わる物として、「作り物」と呼んでいる物が使用されます。
「邯鄲」にも「引立大宮(ひきたておおみや)」と呼んでおります「作り物」が登場します。最初は、邯鄲の里の宿の床。同じ「引立大宮」が、夢の中では宮殿。夢が醒めると、再びやどの床。但し、違いがあり、枕を置いてあれば床で、置いてなければ宮殿になります。「観能する時は想像して」と聞く事がありますが、少しの手がかりはあるものです。慣れてくると、想像する方が、思いが膨らみ、より楽しむ事が出来るように思います。
 「盧生」が王位に昇り、宮殿で舞を舞っている最中に、「引立大宮」より足を踏み外す「ソラオリ」と呼ぶ場面があります。夢の危うさを表した事と言われておりますが、夢を見ながら寝返りをうったところなどと楽しい事を言う人もあります。想像すればなんとでも思えるから不思議であり、又楽しいと思います。
私は「邯鄲」について思う時、豊臣秀吉の辞世「露と落ち 露と消えにし我が身かな 難波のことも夢のまた夢」を思い出し、私の、又、人の、そしてあらゆる生き物の一生とは何であろうか、などと考えております。

平成16年4月29日 賀茂川荘薪能
上田拓司

 邯鄲の里には、昔、仙の法を行う人(仙人)を泊めた時に頂いた枕があり、その枕で眠ると夢を見、来し方(過去)行く末(未来)の悟りを開くという。
 そこへ、蜀の国に住む廬生(ろせい)が、宿泊の為立ち寄る。廬生は、『我人間にありながら仏道をも願わず、ただ茫然と暮らす』多感な青年で、人生の教えを乞う為に、楚国の羊飛山に住む尊い知識(高僧)に会いに行く道中である。
 廬生は、宿主の勧めで邯鄲の枕で眠ると、楚国の帝の位を廬生に譲る為の勅使が迎えに来て宮殿に伴われ、王位につく。
 宮殿は雄大で、雲龍閣や阿房殿には光が満ち、庭には金銀の砂を敷き、四方の門を出入りする人々は光を飾った装いであり、幾千幾万の貢ぎ物が並び、東には三十余丈の銀山を築き、西には三十余丈の金山を築くというものである。
 又、王の日々は、仙人の酒に仙人の盃にて酒宴をし、舞童が舞い、自身も舞遊ぶ夜昼分けぬ楽しいもので、夜と思えば昼、又、月が出(夜)、春と思えば紅葉(秋)、夏と思えば雪(冬)と、余りの楽しさに年月が速く流れ春夏秋冬一年中の万木千草が一日に花咲くかと思われる程のもので、五十年も経った。
 その楽しさの極みに、廬生は宿主に粟飯が炊けたと起こされる。
 王位にまでなり、栄華を極めたのも、粟飯を炊く間の短い夢であった事より、人生そのものも夢であると悟り得て、廬生は国へ帰った。
 以上が粗筋ですが、廬生にとっては、夢の五十年も自身の本当の人生と疑わなかった事と思います。夢であることを知った時の驚きと落胆はとても大きく、直ぐには信じられなかったことでしょう。
 又、廬生が舞う舞の中で、ソラオリと言う事があり、雲の上の楽しみから落ちかけるのでしょうか、夢から覚めかけるのでしょうか、足を踏み外す型があります。意味からすると空降でしょうか、その後少し夢の中断と思われる舞の休みがあります。
 邯鄲の枕の事は、唐の李泌の枕中記にありますが、能に近いのは太平記で、それによると、枕の夢で、楚国の将相に迎えられ、楚王に引き立てられ、三十年後楚王の死の時第一の姫宮を娶り、何事も心に叶う様になったが、五十一年の時夫人が太子を産み、その太子が三才の時、太子と夫人が船より海底に落ちたところで夢覚めます。
 又邯鄲の枕と称するものもありまして、陶器製で、二人用の枕があります。

平成五年十一月二十日 長田能
上田拓司