道成寺

大槻能楽堂自主公演 平成25年5月25日
照の会 第8回 照の会 平成14年

 現在の和歌山、紀州日高川近くに建つ道成寺によく知られた伝説が残されています。ある修業僧を深く愛した女が、逃げる僧を蛇体に姿を変えてまでも追い、ついには鐘の中に隠れた僧を焼き殺してしまうという話です。
 何が人びとの心をとらえたのでしょうか、この伝説はさまざまな文芸や芸能にとりあげられて無数のバリエーションを生みだしました。能『道成寺』もその一つ。ただ能では、伝説そのものではなくその後日譚を描きます。
 道成寺の僧(ワキ方)が登場します。事情があり長らく鐘を失っていたが、このたびようやく新しい鐘を再興することになった、と語り、さらに能力(狂言方)を呼び出して「今日の鐘供養は、女人禁制である」と告げます。
 白拍子(シテ)があらわれます。白拍子とは、当時流行していた歌舞を演じる女芸人のこと。烏帽子や太刀を帯び、つまりは男装で舞うのが常でした。白拍子は鐘供養のことを聞き、供養のために舞を献じようと道成寺までやってきたのです。女人禁制を命じられている能力はいったん立ち入ることをことわりますが、舞を見たいと思ったのでしょう、一存で彼女の願いを認め、烏帽子まで貸してやります。喜んだ白拍子はさっそく烏帽子を付け、鐘のそばへと近づいていきます。

 ここからが「乱拍子」とよばれる『道成寺』独特の舞事になります。裂帛の気合いをこめる小鼓方とそれを最小の動きに最大の緊張を込めて受けとめるシテ方。一対一の緊迫した真剣勝負が、一歩ずつ鐘楼までの階段を昇りつめて行くように続きます。突然、一転して他の能にも見られないほどの急調子に変化する「急の舞」。なおも見せ場は連続します。白拍子は鐘をにらみつけ、「思えば、この鐘、恨めしや」と叫んで、そのまま落ちてくる鐘の中に姿を消してしまいます。
 激しい物音に、能力たちはあわてふためきます。鐘楼に昇った彼らが見つけたものは無残にも落ちた鐘、しかも熱く燃えたぎって触れることもできない鐘でした。この異変を早く報告しなければならない。しかしその原因は、女人禁制の指示を守らなかった自分たちにある。能力の一人がその役割を押しつけられ、おそるおそる僧に報告します。「落ちました!」と。異変を聞いた僧は、人々に女人禁制を命じていた理由を語りだします。
 昔、この近くの里で宿をとった山伏が、宿主の娘に夫婦になろう、と戯れに言ったことを娘は誠と信じて山伏の再訪を待っていた。やがて再び山伏がおとづれたとき、娘は妻にせよと迫る。驚いた山伏は逃げようとしたが、娘は執念深く追いかける。娘は日高川を毒蛇の姿になって渡り切り、この道成寺まで来た。一方、山伏は鐘の中に身をひそめていた。だが、鐘を怪しんだ蛇は何重にも巻き付き、炎を吐いて鐘を溶かそうとし、ついに中に隠れていた山伏を殺してしまった。
 僧は、そのときの娘の執心がまたしても鐘に恨みをなそうとしたのだ、と理解します。これまでの修業の力を見せるときだ、祈ってもう一度、鐘を鐘楼に吊るそう、と他の僧によびかけます。僧たちは、一心に祈りはじめます。
 やがて、鐘が鳴動をはじめ、再び鐘楼に吊り上げられました。鐘の中から恐ろしい蛇の姿。なお僧たちは必死になって祈りつづけます。蛇は激しく抵抗し、一進一退の攻防が続きます。しかし僧の祈りに力尽きたか、と思われたそのとき、蛇は最後の力をふりしぼって猛火を吐き出し、そのまま日高川へと身を翻して消えてしまいました。
ひとます安堵した僧たちは、本坊へと戻っていくのです。
 女の激しい情念を描いた能です。それを演劇的にどう表現するか、この作品ほど工夫が積み重なった能は他に見ることができません。シテはもちろん、他の役柄(囃子方も同様)にも難度の高い技術が要求され、そのすべてが演者にとってやりがいのある見せ場になっています。たとえば『道成寺』にだけある役割、「鐘後見」までがそうなのです。
 能が始まってすぐに、重く大きな鐘(約八〇kg)が運びこまれ、能舞台の天井にある滑車(使用されるのは『道成寺』の時だけです)に吊り下げられます。通常の能の質素、簡潔な道具を見慣れている目には、まったく異なる迫力で舞台上に存在します。その鐘が「鐘後見」の手で演技するかのように動かされ、この作品の重要な場面を作り出していきます。
 どの場面を選んでも緊張感のある面白さ。まさに能の醍醐味を実感させてくれる作品。いや何度も「『道成寺』にだけ」と書いてきたように、能の常識をも逸脱した文字どおりの大曲です。

神戸学院大学人文部教授 伊藤茂

モニター通信 佐々木 基彦さん

1“照の会”の印象

 会場に入った時、「これはひょっとして会場を間違えたのではないか」という感じをうけました。ラップの方が似合いそうなオニイチャン、昔懐かしい“学ラン”姿、ブーツ姿のお嬢さんが、和服姿の中年女性とほぼ同数を占めていたのです。また、帰路の阪急電車の中で、座席で足を組み、人前もはばからずマスカラを描き、口紅を塗っていた(私にとっては苦々しい)若い女性が、徐にとりだしたのは、なんと会場で配られた“照の会”のプログラムだったのです!
 彼ら、彼女たちがどのような経緯で来場したのか、能に惹かれたのか、一度聞いてみたいと思っています。彼らの姿を会場で発見したとき、一瞬、演能中の私語を危惧しましたが、それは杞憂でした。多分,私よりもはるかに能に詳しいのでしょう。
 これまでの私の生活ですと、平日の勤務終了後の6時から9時前までという時間帯は、映画鑑賞ないしプロ野球観戦をする程度の利用方法しかなかったわけです。その比較的短い時間で、仕舞、舞囃子、狂言、能をすべて体験できるというのは、有益な経験でした。もちろん、能を鑑賞するのに“有益な時間利用”という受け止め方自体が、間違っていることは分かっていますが。

2 能への誘いで鑑賞に役立った点

 前回の「砧」とは異なり、「道成寺」は、動きが多様で、ケレンの多い、どちらかといえば、初心者にとっては取っつき易い演目と感じていました。「能への誘い」の夕べで、謡の字句解釈でなく、演者の動作(所作というのでしょうか)、使用する衣装の文様や面に込められている意味を中心にご説明いただき、やはりこれは“取っつき易い演目”ではなく、作者、演出家、演者の意気がこもった“大作品”としてかなり気合を入れて鑑賞しなければと考えを変えました。
 前回の「砧」のアンケートに、「イタリアオペラも歌詞の内容が理解できればさらに面白みが増すといわれるのと同じように、謡の内容を理解して初めて“世界最古の戯曲”としての能が楽しむことが出来た」というのは、まったくの初心者の感想だと、言外に諭されたようです。
 演出として「鬼を表す三角形」の表現がどのように用いられているか、という解説が強く記憶に残っていたことが、隣席の老婦人が居眠りをしていた「白拍子の舞」にも目をこらして、眠気を感じる暇がなかった大きな理由になったようです。

3“道成寺”鑑賞の感想

 「砧」をドラマとして観たのに対して、今回の「道成寺」は一種のスペクタクルとして観ることになりました。映画でいえば、「ベンハー《古いですね》」を見ている感じというべきでしょうか。筋書きや内容的には人間ドラマなのでしょうが、関心は主演男優の体格や主演女優の艶麗さに興味が向いしまうということと同じ感覚です。前半の場面での、低く、尾を引くような地謡も、スペクタクル映画の導入部を見ているようで、「謡も音楽なのだ」と自分で納得していました。
 私の知っている安珍と清姫の物語はどちらかといえば男性の側からみたストーリー仕立てとなっているのに対して、能の「道成寺」は女性の側にたった展開となっているようです。私は、女の子がいないせいか、あるいは小学校以来、今日まで女性と机を並べた経験がないせいか、こうした女性心理の物語は苦手です。フェミニストではありませんが、女性の情念,怨念だけを強調したストーリーには、すなおに感情移入ができません。
 それだけに、今回は、やや冷めた目で観能することになってしまいました。どこに「鬼の3角形」が演出されているのかとか、シテの動きは筋力がかなり必要だなとか。芸能よりもスポーツが好きな私は、蛇となった後の動きだけでなく白拍子のコマ落としのような動きがかなり肉体的な鍛錬が必要だな、道成寺を演じるにあたって毎夜ジョギングで体力をつけるという話も理解できるな、など本筋とは関係ないところで感嘆していました。
 見終わった後、「砧」ならそのまま家路を辿ることになりましたが、「道成寺」は映画を見た後のような高揚感が残り、もし家内が一緒だったらどこかレストランで食事をしながら感想を述べ合うことになったように思います。もっとも、会場周辺には、夜9時を過ぎた後、それなりの雰囲気をもって食事ができるような場所はなかったようですが。