上田観正会定式能
平成20年7月5日
当今に仕える臣下が龍田の明神に参詣すると、瀧祭の神が出現して御矛を讃歎し御代の泰平を祝います。この「逆矛」等、脇能(神祇物)と言われる能は、舞台にいる人も、客席にいる人も、皆共に神に素直に畏敬の心を持ち、この世に生かされている真実を喜び、元気に今日を過ごせることを感謝し、明日の活力となる。そのようなものかと思います。
舞台を思い浮かべて下さい。
時は、長月(九月)二十日あまりで龍田の山は錦を織った様な美しい紅葉の景色です。当今に仕える臣下達(ワキ、ワキツレ)が、夜祭に参る男達(前シテ、前ツレ)に連れられて宝の御矛を納める宝山に参ります。
宝山の謂われは、『昔、天祖、国常立(くにとこたち)尊が伊弉諾(いざなぎ)尊、伊弉册(いざなみ)尊に、豊葦原千五百秋(とよあしわらちいおしゅ)瑞穂の国があり、汝よく知るべし(治めるべし)と、天の御矛を授けました。伊弉諾、伊弉册の二神は天の浮橋に立ち、この御矛を海中にさし下し国を生みました。このさかさまにさし下ろした事より、御矛を天の逆矛と名づけました。そして国富み、民を治め、国土治まり、御代平らかになって、瀧祭の明神がこの天の逆矛を預かり、この御山に納めて、宝の山と呼びました。』というものです。
この御矛の主、瀧祭の神の社は、名高い龍田山で、紅葉の八葉も御矛の刃先より照らす日影を受けて紅に光り、逆矛の露から生まれた天地、国土がすなおに、安穏である事、こここそが国の宝を治めた山であるので、よくよく禮拝するよう、当今に仕える臣下達(ワキ、ワキツレ)は勧められます。
当今に仕える臣下(ワキ)は、龍田の神の宝の御矛を、所を分けて見せるよう言いますと、夜祭に参る男(前シテ)は、「むつかしの(うるさい、面倒な)旅人や」と、神の祭りを早めようと鈴を鳴らし鼓を打ち、「神はわれなり」と言い、失せてしまいます。
当今に仕える臣下(ワキ)は、山下の者(間狂言)に、伊弉諾、伊弉册の国生みの話を聞き、また今逢った夜祭に参る男達の事を聞き、明神が仮に現れた事であろうと思い、重ねて奇特を見ようと仮寝をしながら待っていると、音楽が聞こえ、花がふり、異香薫じ、天女(後ツレ)が舞い、瀧祭の神(後シテ)、即ち龍田明神が現れ、人々の拍手(かしわで)が響く山に、雲霧が晴れ天の御矛が現れます。
神の声で、『そもそも大日本国は神国であり、神は本覚真如の都(極楽浄土)を出でて、和光同塵(人々に交わり)の形を現し、日本国は最も仏法の盛んな国である。』と聞こえます。昔、伊弉諾、伊弉册の尊が天の浮橋からこの御矛をさし下し、青海原を掻き分け御矛のしただりが凝り固まり、淡路島、紀の国、伊勢、志摩、筑紫、四国、総じて大八洲の国が出来あがり、初め国々は荒島で険しい葦原であったのを矛を振る手風が疾風となって葦原をなぎ払い、その引き捨て置いた葦が「足引の山」となり、また土は石金であったのを矛で砕き「あらかねの土」となったさまを表し、その外東西南北、十方を治め、悪魔を退け、国を治め、御矛を毎日守っている神体であると言い、御代を寿ぎます。
能「逆矛」では瀧祭の神と、龍田の神(龍田姫)を同一体として、宝山に天の逆矛を預かって地中に収めたと言う説をとっているようです。伊勢神宮の神楽祭が毎年四月にあり、私もよく奉納の舞台に行かせて頂いておりますが、五十鈴川御手洗場の近くに瀧祭の神が祭られており、昔より御垣とご門だけあって社殿がなく、水の神であるそうです。龍田の瀧祭の神も「瀧祭の神と申すは龍神なり」とあるので水の神です。天の逆矛は実は何処に納められているのだろうか、などと思い巡らしながら今年も四月三十日に伊勢内宮の能楽殿へ参らせて頂きました。
平成20年7月5日 上田観正会定式能「逆矛」
シテ上田拓司