平成17年5月5日 尼崎 大覚寺にて 震災10年祈念能
「かたを波、あなたへざらり、こなたへざらり、ざらりざらりざらざらざっと…」
大和物語には「津の国の難波の辺りに…中略…女も男もいと下種にはあらざりけれど、年比わたらいなどもいとわろくなりて…」とあります。能「芦刈」は、これを題材にした作品です。
摂津の国、日下左衛門は貧困の為に夫婦別れをしました。夫は零落し、その居所もわからなくなっています。妻は、都で貴人の乳母になって、相当の生活が出来るようになっています。その妻が、その貴人の家に仕えている人を従者として、夫を尋ねて難波へ行くところから能「芦刈」は始まります。
妻の一行は、日下左衛門の事を、所の者に訪ねますが、行方はわかりません。又、この浦で芦を売る者が、色々に戯れ事をして面白いと聞きます。
日下左衛門は、今は芦を売って身命を繋いでいます。
都人に、「難波の芦」と声をかけられ、芦を「よし」とも「あし」とも、「はまおぎ」とも言う事、又、「御津の濱」と言う事などを語ります。折節、御津の濱で網子が網を引いている姿を見、「大宮の内まで聞ゆ網引きすと網子ととのふる海士の呼声(万葉集)」の古歌の通りの有様、春の景色、笠尽くし等を謡い舞います。
輿の中より、芦を一本所望され、輿の中の人が、元の妻である事に気付き、日下左衛門は、己のあさましさのあまり隠れてしまいます。
「君なくてあしかりけりと思ふにぞ いとど難波の浦は住み憂き」(君は妻。あしかりけりは、悪し、と芦刈。妻と別れて悪かったと思いながら芦を刈る難波の浦の住まいを嘆く歌。)「悪しからじ善からんとてぞ別れにし 何か難波の浦は住み憂き」(悪くありません。良かれと別れた事で、何か難波の浦が住み憂い事はありません。)互に和歌を詠み、夫婦は喜び、共に都へ上ります。
大和物語、源平盛衰記、今昔物語等と違い、能「芦刈」では夫婦は再会して互に喜び、連れ立って都へ上る事になります。
「足引の山こそ霞め難波江に、向ふは波の淡路潟。げにや所から異浦々の気色までも、眺めにつづく難波舟の、出で浮かみたる朝ぼらけ。心も澄める面白さよ。」現代でも天気のよい日に大阪湾を眺めると、同じ景色です。この景色の下で、日下左衛門は、「栄華の家には住みもせで、かかる貧家に生まるる事、前の世の戒行こそ拙けれ。…この身命を繋がんとて…芦刈人となりたるなり。」と言います。
しかし、皆、ただ何となく扱う芦を、古来よく歌に詠まれた「難波の芦」と愛で、又、仁徳天皇が難波の浦に大宮造りをし、「御津の濱」と言う時に、日下左衛門には、零落し、一人で芦を売る日々の中にも、「われも昔は…」という気概を感じます。中でも、「笠之段」と呼ばれる部分では、 「大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海士の呼び声」(万葉集)の歌の通り、御津の濱で漁師たちが網を引っ張る声が活き活きと聞こえ、難波わたりの春の景色、朧船、沖のカモメ、磯千鳥が面白く、笠尽し、かたを波、あなたへざらり、こなたへざらり、ざらりざらりざらざらざっと…、生きていく強さを感じずには居られません。
夫婦は互に歌を詠み、再会します。この歌は、「目に見えぬ鬼神をも和らげ、武士の心慰むる、夫婦の情け知る」ものであり、「濱の真砂はよみ尽くし尽くすとも、この道は尽きせめや」(たとえ濱の砂は数え尽くしても、歌はつきない)と、夫婦の契りを戻した「和歌」を愛で、喜びの舞を舞って、共に都へ上ります。
私には、能「芦刈」は、たとえ零落しても、「精一杯生きる事の尊さ」を教えてくれている様に思えます。能「敦盛」の「それ勝るをも羨まざれ、劣るをも賤しむなとこそ見えて候へ」という言葉も思い出されます。
上田拓司