盛久

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撮影:牛窓雅之

照の会神戸公演 平成30年6月17日 湊川神社神能殿

帰る春なき名残かな

 平家物語に「主馬入道盛国が末子に主馬八郎左衛門盛久、京都に隠れ居けるが、年来の宿願にて等身の千手観音を造立し奉りて、清水寺の本尊の右わきに居え奉りけり。盛久、降るにも照るにもはだしにて清水寺へ千日毎日参詣すべき志深くして、歩みを運び年月を経るに、人是を知らず。」
 盛久は、観音信仰の心が深く、平家滅亡後も清水寺に参詣をしていて、現代で思えば指名手配されている中でも、たくさんの人の中に出かけ、しかも、誰にも気付かれなかったというところでしょうか。しかし密告により捕らえられた盛久は、鎌倉へ送られる事になります。ここからが、能「盛久」です。

 盛久は、土屋三郎に、只今関東に下るならばこれが限りと、清水への立ち寄りを請います。鎌倉へ下れば斬首となる身です。花盛りの清水で手を合わせ、その時の盛久の思いが「帰る春なき名残かな。」です。
京都から鎌倉まで、東海道を下っていく道中の名所に、二度と帰る事がないと思っている盛久の心を添えて、謡われていきます。舞台で盛久の上に被されている「作り物」の「輿」は、暗い色で作られており、捕われ人を運ぶ籠の輿を表します。「かくて存え諸人に面を曝さんより、あっぱれ疾う斬らればやと思い候。」という盛久に、土屋は心を配ります。合戦によっては、明日は我が身とも思うのでしょうか。恨み合わない相手でも敵味方になる武士の辛さから、「武士の情け」という言葉も生まれたように思います。

 盛久は御経を読誦する内、少し睡眠し、霊夢を見ます。霊夢とは、まだ夜が明ける前、天の一方が明るくなり、八十を超えるような老僧が、香染の袈裟を掛け、水晶の数珠を爪繰り、鳩の杖に縋り、妙なる声で、京都東山の清水から汝の為に来たと。そして、長年、汝は誠に信心しているので、我が汝の命に代る、というものです。平家物語に寄ると、夢を見たのは頼朝の室家(妻)、となっていますが、誠に有難い事と思います。
盛久には、死を前に、ぬぐいきれない不安があることでしょう。観音信仰で、それをも超えんとする覚悟、信仰心、それにも増して、奇蹟によって救われた喜び。その様な事を感じながら、心のよりどころとしての宗教について、改めて考えさせられます。

 文治二年六月二十八日、盛久が首を刎ねられる為に、由比ヶ浜に曳き出された日に、あの安置していた観音像が俄に倒れ、手が二つに折れたと吾妻鏡に書かれています。有難いと思い合掌しております。

平成三十年六月十七日 照の会神戸公演 上田 拓司