白楽天

白楽天―脇能―

「不知火の、筑紫の海の朝ぼらけ。月のみ残る、景色かな。巨水満々として、碧浪天を浸し…」漁夫が二人が登場し、最初の詞です。玄海灘に船に浮かみ、朝ぼらけの中に月のみがあり、辺りの海には、巨水満々とあり、青い波が天まで浸している様に思える。そこにいる漁夫二人は、実は神である。
 二十歳の頃、能の基本は、生命である。一所懸命に生きる姿である。これが基盤としてなければ、能は出来ない。という様な事を言われ、「白楽天」、「老松」といった曲を、稽古して頂き、稽古会でさせて頂いたものです。実際に人前でするには無理であると言われ、今回、初演になります。先にあげた最初の文、何も分からない私に、例えば橋掛は、人間の世界ではない、荘重感が漂うように、などと言葉を工夫し、教えて頂いた事を思い出します。
 和国(日本)の翫び(もてあそび)、和歌、舞楽。神の舞楽というべきもの、それは、大自然と、調和した、例えば、波の音は鼓、龍の吟ずる声(風)は笛、「舞人はこの尉が、老の波の上に立って、青海に浮かみつつ、海青楽を舞うべしや。」老漁夫が船ではなく、波の上に立って、海青楽の舞楽を舞う。その老漁夫は、住吉明神であり、「住吉現じ給えば、伊勢、石清水、賀茂、春日、鹿島、三島…」住吉明神と共に、神々が「海上に浮かんで、海青楽を舞い給えば、」夢を通り越した情景と感じます。神々の舞の衣の風が、手風神風で、白楽天の船は吹き戻されます。
 舞台を勤めておりまして、「強く」と言うと「きつく」なったり「荒く」なったりしてしまい、「強い」と言う事が中々わからない様に思いますが、自分自身、文章を見ているだけでは感じ切れない事が、ほんの少し感じられる様になった気がして、一人で喜んでおります。

平成十六年二月二十八日 上田観正会定式能
上田拓司

モニター通信 稲田義久さん
「白楽天」は小生にとって今年度3回目の能である。名前は聞いていたが、小生にとっては初めてであるため、事前準備をしたかったが今回もできなかった。言い訳ではないが、結果的にはそのことが幸いした。予備的な知識を持たなかったために受けた印象が極めて強かった。
 まず能とは意外とスペクタクルだなというのが最大の印象。もちろん「白楽天」の構成にもよるが。スペクタクルといえば、古くは映画でいえば、「ベンハー」や「十戒」、新しいところでは「スターウォーズ」といったところか。一方、能といえば「静」、「幽玄」といった印象が通り相場である。どこに一体スペクタクルの要素があるのだ。
 「白楽天」ではいきなりワキが笛の音で登場し名宣りをする。これも見るものを引き込む仕掛けである。中国一のインテリ(白楽天)が日本にやってきたわけは、日本の文化程度の視察である。一方、これに対抗するは、ご存知、和歌の守護神、住吉明神である。ただし、一介の老漁師の体をとっている。文化から最も遠いと思われている漁師でも歌の教養があるのに気づき、白楽天は日本文化の凄さにたじろぐわけである。漁師と白楽天の掛け合いの中で、日本文化と中国文化の関係が簡単に述べられ、日本文化の独自性が高らかに宣言される。また間狂言では住吉明神末社の舞がある。このように能の展開に硬軟があり見るものを楽しませてくれる。そして最後のシーンがすさまじい。伊勢を筆頭に、石清水、加茂、春日、鹿島、三島、諏訪、熱田、厳島といった日本を代表する神々が舞を舞い神風をおこし、白楽天を中国に押し返すのである。能という約束事の制約の中でも、小生には舞台で展開されている大スペクタルがはっきり見える。上田先生演じる住吉明神は、釣りをする能では意外なシーンより、神風を起こす様がとても印象強い。
 「白楽天」はその構成が変化に富み見るものをとても楽しませてくれる能である。ここにいまさら世阿弥の才能のすごさに感心するのだが、もし彼が今生きていたならば、偉大な劇作家、舞台作家といったところだろう。しかし、そのような枠では捉えきれない凄さが彼にはある。彼には当時の日本文化を背負っているという意気込みが感じられるのである。能は奥が深い。
 最後に、手元にテキストがなかったので、鑑賞能の帰りに梅田の古書街によって早速求めたが2軒ともなかった。思惑がはずれなんとなくストレスがたまる。観劇の印象が徐々に薄れるのが嫌だったからである。幸いなことに翌週東京出張の機会があった。早速それを利用して帰りに神田の古書街によった。さすが神田、3軒目の店で見つかった。ただし新本で。サラリーマンが缶ビールを片手に出張の疲れを癒す新幹線の中、小生は「白楽天」を小声で謡い缶ビールとは違う至福のときを過ごした。感謝。