熊坂

 熊坂長範は、元は正直者であったが、仮初に人の物を取ってより、盗みは元手も要らず楽な事と思い、盗人になってしまいました。牛馬を盗んで山中に隠し、それを市場で売ったりしても、一度も悪事が発覚した事がなかった様です。その熊坂の立った一度の失敗が、六十三才の時、吉次を襲撃した時で、その時、落命しました。その相手が牛若丸出なければ、熊坂の名は、後世には知られなかったでしょう。
 一方、奥州藤原秀衡の御家人、吉次信高は、豊富な黄金を使って、商人三条の吉次信高として、京と奥州を往復し、現在の平泉、中尊寺にのこされている文化遺産に対しての功労者の一人に数えられますが、政治的にも暗躍し、牛若丸を奥州へ連れて行きました。その途中熊坂に襲撃されましたが、反対に熊坂一味は、牛若丸に討たれました。.その熊坂の幽霊が成仏を願って現れ、その時の有様を語るのが、「熊坂」の能です。
 都の僧が、東国修行の途中、赤坂の里に着くと、もう一人の僧が現れ、今日はさる者の命日で、名は言わないが、弔って欲しいと頼む。京の僧は案内されて持仏堂に入るが、絵像も木像もなく、大長刀等の兵具が置いてあるので不審に思って尋ねる。.すると、此の辺は、山賊や盗賊が出没するので、自分も長刀をひっさげて「ここをば愚僧に任せよ」と呼ばわると、時には盗賊も現れない事もあった話をする。そして僧らしくない腕立てと思うだろうが、仏も衆生の為に、弥陀の利剣、愛染明王の方便の弓矢、多聞天の鉾等で悪魔を降伏し、災難を払うと語り、眠蔵(寝室)に入ると思うと、たちまちに形も失せ、庵室は草むらとなってしまう。
 都の僧が、、寝られぬままに仏事をしていると、暗闇の中に熊坂長範の霊が現れ、吉次信高の高荷を襲ったとこの話をする。
 熊坂一味七十人が選んだ場所は、赤坂の宿で、退き場も四方に道が多い。吉次一行は、宵より遊女を呼び、数百の遊びで時を移し、吉次兄弟たちは前後も知らず寝てしまった。その時、十六,七才の小男が、障子の隙間の、ソヨとする野を心に掛けて起きていたのを、牛若丸とも知らず、松明を投げ込み、乱れ入ったが、正面に進んだ十三人は切られ伏せられ、その外も、ほうほうの体で逃げる始末。熊坂も命あっての事と、退こうとしたが、思い直し、自分が秘術を奪うなラバ、天魔鬼神でも微塵になすと、牛若へかかるが、牛若はすばしっこく、終に、切られてしまう。打物では敵わないと、両手で捕らえようとするが、捕らえられない。次第次第に重手を負い、この松の根元で死んでしまった。
 後世を弔う事を頼み、夜が明けると、熊坂の幽霊は、松陰に隠れてしまう。
 前シテが自分の事を、未だ初発心の者と言いますが、死んでから成仏を願うようになったのでしょうか。その成仏を願う心が、熊坂の霊を僧の姿にしたのでしょうか。それならば、持仏堂に、仏像がなく、兵具があるのは、何と悲しい事でしょう。
 後シテの登場で、「東南に風立って、西北に雲静かならず。夕闇の夜風激しき山陰に梢木野間や騒ぐらん。有明頃か何時しかに、月は出ても朧夜なるべし。切り入れ攻めよと前後を下知し、・・・」。暗闇の中で、盗賊がうごめき、息を潜め、忍び寄ってくる不気味な様子を言っています。死後も、この様な気持ちから逃れられないのでしょう。

第十七回長田能 平成6年11月8日 
上田 拓司