松山天狗

大槻能楽堂自主公演 平成19年3月24日


 崇徳上皇が、讃岐の国、松山にて崩御されたので、西行法師が弔いの為、松山を訪ねます。そこで老人に御廟所松山に案内され、「よしや君昔の玉の床とても、かからん後は何にかはせん」と歌を詠じます。
 老人は、崇徳院ご存命の時は、都の事を思い出し、御逆鱗の為、魔縁が近づき、白峰の相模坊、天狗どもしか参内が無かった事を言い、自分もその一人であると言い失せてしまいます。
 夜にいり、崇徳院が現れ「よしや君」の歌を褒め、夜遊の舞楽を奏しますが、やはり都の憂き事を思い出し、逆鱗の姿をあらわします。すると相模坊以下、天狗どもが参内し、逆臣を悉く蹴殺すと申し上げると、崇徳院も悦んだかと思うと、天狗は虚空に上がり、夜は明けます。

 保元の乱の後、讃岐へ流された崇徳院は、保元の乱で死んだ人たちの供養、自らの反省の証として五部大乗経の写本を京の都の寺に収めてもらうよう朝廷に差し出しましたが、後白河法皇が、呪詛が込められている事を疑い、朝廷から送り返されてしまいます。崇徳院は自分の舌を噛み切り、その血で写本に、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん。」「この経を魔道に回向す。」と書き込んだとの事です。また、崩御され、火葬にした時、その煙が京の都の方へたなびいたとの事です。その後、平家の時代より江戸時代まで長く武家の政権が続いた事はその結果なのでしょうか。
 昨年の「巴園」と、2年続いての復曲(観世流の現行曲以外の曲、現在「松山天狗」は金剛流のみ現行曲)ですが、あまり見た事がない曲ですので、どうなるか心配なのと、又、現在も崇徳院の怨念があるならば、何か恐ろしく感じます。

平成19年3月24日 大槻能楽堂自主公演 「松山天狗」にむけて
上田拓司