杜若

恋之舞 (真は我は杜若の精なり)

 まず旅僧が「・・・あら美しの杜若やな」。何処からともなく現れた女性が「これこそ三河の国八橋とて、杜若の名所にて候へ。」「その沢に杜若のいと面白く咲き乱れたるを・・・」。
 初夏に、あたり一面に杜若が咲き乱れている様は、さぞ美しい眺めでしょう。私自身、「あたり一面の杜若」という眺めは経験しておりませんが、大きな杜若が並んでいる絵に感銘を受けたことがあり、その景色を思い浮かべると、明るく、そして雄大な、大自然というものを感じます。
 現れた女性は、杜若の精です。そして、極楽の歌舞の菩薩が仮に人間として現れたのが在原業平であり、その業平が詠む和歌の言葉までも、皆法身説法の妙文であるから、草木までも仏果の縁で成仏すると喜びます。人間には耳があり、目があり、心があり、仏の教えに触れる事が出来、成仏する事が出来る機会であるとされます。「馬の耳に念仏」などと聞くと、又、ましてや草木となると、成仏はかなわない事との考えです。
 「杜若」には、「序之舞」という舞がありますが、「井筒」「野宮」等、人間(幽霊も含む)の舞と違って、「西行桜」等と同じ、草木の舞です。舞っていて、何か、カッチリとした舞と感じます。舞の途中、橋掛ヘ行き、袖を被き、しばらく動かない所がありますが、広々と咲き乱れた杜若を見、そして、水に映った自分の姿を見つめます。杜若の精には、人間の姿になった己の姿は、どの様に見えたことかと思います。私には「恋之舞」の名は、ここによるのかと感じられます。
 「・・・杜若の、花も悟りの、心開けて、すわや今こそ草木国土、悉皆成仏の御法を得てこそ、失せにけれ。」「杜若」の最後の文章です。私まで嬉しくなるように思えます。
 最後にもう一つ。「かきつばた」という五文字を句の上に置いて、旅の心を詠め、と言われて詠んだ業平の和歌「唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」。都の高子を思い、自分は遥々遠くまで来たという感慨深い歌です。伊勢物語には、その場にいた人が、皆思い当たる事があったのか、「皆人かれ飯の上に涙おとしてほとびにけり」とあります。業平が歌舞の菩薩の化現であるか否かは別にして、言うも愚かですが、タイシタモンダと思ってしまいます。
 杜若の精が、能舞台の橋掛の欄干に立つ姿を見て、八橋の欄干を想って頂けると、嬉しく存じます。

平成15年6月28日
能楽協会神戸支部自主公演能
上田拓司