「光も輝く千本の桜の、栄ゆく春こそ久しけれ。」
嵐山の「千本の桜」は、吉野の「千本の桜」から移されたもので、今年の花を見て参れとの宣旨により、勅使が嵐山に行きます。
花守の老人夫婦が、花を神木と言って礼拝するので、謂れを尋ねると、嵐山の千本の桜は、吉野の千本の桜を移したものであるから、吉野の子守明神、勝手明神が花に影向すると答えます。そして自分達が子守、勝手の夫婦の神であると明かし、名前は「嵐山」ではあるが、たとえ嵐が吹いても、神木の花はよも散る事はないと、御代を賛美し、雲に乗って、夕陽の残る西山から南の吉野の方へ飛び去ります。
夜に入り、末社の神がめでたく舞を舞い、子守、勝手の神が神遊びをし、蔵王権現が来現し、悪業に苦しむ衆生の苦患を助け、煩悩を払い、悪魔を降伏し衆生を守る誓いを示します。子守、勝手、蔵王権現が嵐山に攀じ登り、花に戯れ、梢に翔ける様は、霊山金峯山そのままで、光り輝く千本の桜の、栄ゆく春は幾久しいのです。
この通りの奇瑞に、もし本当に逢えたなら、どれほど感激するでしょうか。人間の目には見えなくとも、このような神の寿ぎは本当にあるのだと、是非思いたいものです。舞台の上も、見所も、皆、幸福になるのです。その為の能「嵐山」であると信じております。
私共の父、照也は、私共四人の兄弟全員の成人は待たず他界してしまいました。長兄貴弘から末弟大介まで十年の歳の差もあり、父照也と、兄弟四人が同じ舞台を勤める事は、なかなかありませんでした。そんな中で、ただ一度だけ親子五人が同じ舞台を勤めたことがありました。父が他界する一年半ほど前、それは祖父隆一の三十三回忌の追善会です。父は一日だけ病院から上田能楽堂へ帰ってきまして、舞囃子「百万」を舞い、兄弟四人で地謡を勤めました。その日、再び病院に帰り、数日後に胃の摘出の為の手術を受けました。
、三男顕崇は後ツレをそれぞれ勤めさせて頂きます。今年は亡父の二十七回忌にあたります。末娘の絢音は、今回、同じ舞台にはおりませんが、それでも万感こみあがってくる思いでございます。
平成22年5月5日 上田観正会定式能「嵐山」にむけて
上田拓司