上田照也23回忌追善別会
平成18年1月29日(日) 湊川神社神能殿
人目なきこそ安かりけれ。
源平の合戦も終わり、平家の一門は悉く亡び、命長らえた女院(にょういん・建礼門院)は、阿波内侍、大納言局と共に、大原の寂光院に住んでいます。能はここから始まります。
昨年はNHK大河ドラマ『義経』の放映がありましたが、この三人、言葉では尽されない辛い思いであったことでしょう。「山里はものの寂しき事こそあれ。」より始まる三人の言葉。「立居につけて物思えど、人目なきこそ安かりけれ。」平家全盛期を思うと、今の寂しい日々は物思う事も多いけれども、人目がないので安らかである。過去の波乱に疲れ果てての言葉と思います。
そこへ後白河法皇の御幸があります。萬里小路中納言は女院の庵室を見て、「軒には蔦朝顔這いかかり、藜?深く閉ざせり」。あまりの所に驚きます。平家と共に没落していった三人、そして又、今は心静に亡き平家一門の菩提を弔う三人は、後白河法皇の御幸に、さぞ心乱れた事でしょう。阿波の内侍は「明日をも知らぬこの身なれば、恨みとはさらに思わず候」。又、女院は法皇の名前を聞くだけでも「なお妄執の閻浮の世をノ涙の色」と涙を流します。しかし「とは思えども法の人、同じ道にと頼むなり」と、今は共に仏道に入った者として思い直します。「一念の窓の前」から始まる、女院の日々の思い、仏道を志すと、こうも清らかになるかと思います。「朧の清水」に映る月を見ても、女院には月ではなく、亡き息子の安徳天皇、ほか平家一門の姿が見えるのかと思います。
法皇より、「女院は六道(天上、人間、修羅、地獄、餓鬼、畜生)の有様を見たのは本当か、仏菩薩でなければ見られない筈なのにノ」と尋ねられ、女院は「国母の高い位で天上の楽しみを受け、西海で平家一門と船の内におり、海に臨んでも潮であり、飲水できず、餓鬼道の如くであり、又、汀の波で船が転覆するかとの心地がして、皆泣き叫んだのは叫喚地獄の様であり、陸で争いがあった時は目の前が修羅道であり、馬の蹄の音を聞くと畜生道であり、それを見聞きした事は人間の苦しみであります。」と語ります。我が身を思うと、岸に根が離れた草の様であり、命は江の辺に繋いでいない船の様だとノ。さぞ辛く、不安な日々であったでしょう。
同じく先帝安徳天皇の御最後の有様を聞かれ、緒方三郎の心変わりにより筑紫へ落ち行く事が叶わず、能登守教経が安芸太郎兄弟を左右の脇に挟み、「最後の供せよ」と海中に飛んで入った事、新中納言知盛が船の碇を戴き海に入った事、二位尼が幼い安徳天皇の手を取り船端に臨み、「いずくへ行くぞ」と聞く安徳天皇に「極楽世界と申して、めでたき所の、この波の下にさむろうなれば、行幸なし奉らん」と答えると、安徳天皇は、「さては心得たりと」東の伊勢の天照大神に暇を申し、また十念の為、西(西方極楽浄土)に向かった事、そして「今ぞ知る、御裳濯川の流れには、波の底にも都ありとは」、これを最後の御製に、海の底に入った事、自分も続いて沈んだが、源氏の武士に取上げられた事を語ります。
そして女院は、都へ還幸する法皇を見送り、庵室へ入ります。
心静に日々を送る三人には、法皇が来た事によって、心に波立った事と思いますが、法皇が帰ると再び静かな時が来るのでしょう。
平家物語巻第十二、灌頂巻によると、女院は十五で女御、十六で后妃、二十二で皇子誕生、皇太子に立ったので院号(建礼門院)蒙らせ、平清盛の娘である上に国母となり、そして平家滅亡が二十九才との事です。その翌年、文治二年の春、法皇の大原御幸です。そして建久二年如月の中旬に生涯を終わったとあります。いまさらに「人目なきこそ安かりけれ」との言葉に感じずには居られません。
平成18年1月29日 亡父上田照也23回忌追善別会 当日配布解説用
上田拓司