夜討曾我

第18回照の会 平成24年11月10日


十郎:上田宜照
五郎:上田彰敏
古屋五郎:上田拓司
御所五郎丸:上田顕崇

「嬉やな年月狙いし親の敵。工藤祐経を討ち取りたれば」


(謡曲「夜討曾我」より) 今回は、「小袖曽我」「夜討曾我」のシテ曾我兄弟が、親の仇として工藤祐経を討つ原因となった「河津三郎祐泰(祐通)」暗殺について紹介したく思います。

 建久4年(1193)5月 二十八日、癸巳、子の刻に故伊藤次郎祐親法師の孫の曽我十郎祐成・同五郎時致が、富士野の神野の御旅館におしかけ、工藤左衛門尉祐経を殺害した。(中略)その時、祐経・王藤内らの相手をしていた遊女の手越の少将と黄瀬川の亀鶴らが悲鳴をあげ、その上に祐成兄弟が父の敵を討ったと大声で呼ばわった。このため人々は大騒動になった。詳しい事情分からないままに、宿侍の者たちがみな走り出してきた。雷雨が鼓を撃つかのようであり、闇夜に灯りを失って、殆ど東西さえ分からないほどだったので、祐成らによって多くのものが疵をこうむった。
(五味文彦・本郷和人編「現代語訳 吾妻鏡6」第一版 吉川弘文館 2009 P.17、18)

 さて、突然の引用失礼致しました。上にもあります通り、「夜討曾我」の出来事は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に史実として載っています。能における曾我物の典拠となったのは鎌倉から室町時代にかけて成立していった「曾我物語」でありますが、元を正せば史実である曾我兄弟による富士の御狩の襲撃を源とも考えられます。本稿ではそれを更に遡って、そもそもの始まりである曾我兄弟の父「河津三郎祐泰(祐通とも)」が殺害されたその経緯について、「吾妻鏡」を覗いてみます。
 この件は兄弟の討ち入りの翌日の項に記されています。曰く、祐泰は兄弟がそれぞれ5歳と3歳のとき、伊豆の奥の狩場にて思いがけず矢に当たって絶命したが実は工藤祐経の仕業によるものであった、と。では何故、祐経は祐泰を殺してしまったのでしょうか。これは「曾我物語」第一巻において述べられています。順を追って説明していきましょう。
 事の起こりは伊豆国(静岡県の伊豆半島を主とする一帯)の楠美荘の領主にして、兄弟の曽祖父「楠美入道寂心(俗名:工藤祐隆)」が息子に皆、先立たれたことにあります。彼は後妻の連れ子に密かに産ませた子を嫡子に立て、主な領地である伊東荘を譲り「伊東武者祐継」と名乗らせましたが、亡くなった息子にも男の子が居た為、次男として河津荘を譲り「河津次郎祐親」と名乗らせました。
 ところが、伊東祐継の出生の秘密を知らない河津祐親はこの処置を不満に思いました。祐継の死後、一旦は彼の遺言に従い祐継の嫡男の面倒を見、元服させて自分の娘と結婚させるも、祐継の嫡男が都へ上ると所領を横領するのです。これに対し祐継の嫡男は訴訟を起こしたのですが、祐親の賄賂によりことごとく退けられます。更に祐親は、彼から嫁がせた娘を取り上げ別の男と結婚させてしまいます。この理不尽な境遇に追い込まれた祐継の嫡男こそ、兄弟の仇敵となる工藤祐経なのです。本来は自分のものである所領をのっとられ妻を奪われた彼が、祐親と嫡男の祐泰暗殺を企て所領を取り戻そうと思うのは当然の成り行きではないかと思わざるを得ません。もっとも曾我物語はこれを「第一には叔父なり。第二には養父。第三には舅(しゅうと)。第四には元服親なり。」として祐経は祐親に対する重恩があると述べ、祐経の悲惨な最期を示唆します。なかなか道理というのは難しいものです。
 しかし祐経は暗殺を部下に実行させます。放たれた刺客の矢は祐泰の命と祐親の左指2本を奪います。悪運強さに仕留め損ねた祐親も、後に源頼朝に敵対したことが仇となって自害し、その息子も平家方に与して討死します。やがて工藤祐経は頼朝の側近として重く扱われるようになり、伊東荘は祐経のものとなるのです。
 こうして祐経は祐親一族に復讐を果たして所領を取り戻し、輝かしい出世を遂げたわけです。しかしながら、祐親一族の没落と祐経の繁栄は、祐泰の子供の中に復讐の火を育てていき、その火に祐経が焼かれることとなるとは因果か常なき世のさだめか、人性の虚無を感じずにはいられません。

平成24年2月9日 瓦照苑 上田顕崇

「さらばよ急げ 急げ使。涙を文に巻き込めて」

(謡曲「夜討曽我」)

 能「夜討曽我」は、能「小袖曽我」にて曾我兄弟が母に別れを告げた後、富士の御狩へ向かう所から始まります。

実父の仇にして今や源頼朝の側近である「工藤祐経」への復讐を企てる兄弟は富士の裾野へ着きます。征夷大将軍の催す富士の御狩での暗殺は命を捨てるに同じことです。敵討ちを今夜に定めた兄弟は、母に形見を送る為、供について来ていた従者の「鬼王」「団三郎」兄弟に形見を持って母の元へ届けるよう命じます。曾我兄弟に最期まで忠を尽くしたい二人は帰ることを拒みますが、兄の命を受けた五郎時致に強く迫られ首を縦に振らざるを得ません。従者としての本意と十郎祐成の御意に進退窮まった二人は、元々死ぬ気で付いて来て今更帰るのは漢が許せないのでしょう、その場にて刺し違えようとします。これに慌てた五郎は二人を止め、十郎は無理強いして帰すのをやめるので話を聞くようにと二人を落ち着かせます。十郎の、全員死なば敵討ちのことを知らない母に兄弟の死を誰が伝えられるのか、君臣の礼に背くならば永き世に渡り勘当する、という言葉に二人は涙ながらに折れ、形見を受け取ります。やがて入合の鐘(夕暮れ時の鐘)が鳴り、曾我の郷へ出立する二人が見えなくなる頃、残った兄弟は涙を流すのです。よく死にに行く若人を美談とする物語があります。二十二と二十の人間の今から死へ向かうことが全て美しさで構成されているのか、是非その眼で見てほしく思います。
 さて、遂に兄弟は工藤祐経を討ち取ります。能にここの場面は出てきませんが、『仮名本曾我物語』曰く、寝入っていた祐経の肩に十郎が起きろと刃を突き立て、祐経が太刀を取って起き上がろうとするを兄弟で2太刀ずつ斬りつけ、止めを何度も刺したので口と喉が一つになったとあります。今回は小書「十番斬り」なので祐経を討った直後から始まり、曾我兄弟が敵を討ったと呼ばわる大声に御家人達がおっとり刀で現れます。それらを兄弟でことごとく斬り捨て、そのうちの一人が逃げ出すを五郎が追いかけるうちに、二人ははぐれてしまいます。十郎の前には血縁の仁田四郎忠常が立ちはだかり、十郎はこれを死に場所と斬り結びます。一方、五郎に追われた御家人が頼朝の御所へ逃げ込んだことで、五郎は正に将軍の目と鼻の先にたどり着きます。「千万人の侍共を討つより君(頼朝)一人を汚し参らせつつ後代に名をば留め候はむ」という思いを胸に五郎が今、御所へ入らんとするその時、一人の女がたたずんでいるのを見咎めるのです。彼らがどうなったかは、お能を御覧になってお確かめ下さい。

最後に一つ、能の詞は成立した段階でもう一般的に難しいとされるものでした。約七百年を経た今、我々にとってどこまでわかるか微妙なところです。しかし、人間が昔から変わっていないのと同じように、昔からわかることもわからないことも同じものです。
 例えば、これはどうでしょう、手跡に勝る形見無しとする十郎祐成の手紙。敵討ちが終わった後はずっと母の側に居ますと贈ってきた五郎時致のお守り。これらを形見だと突然見せられた母の気持ちは如何でしょうか。

平成24年10月15日 上田顕崇