善界

白頭 ―音無しの拍子―

能には「天狗」の登場する曲が「善界」など、数番あります。

「天狗」は古くは「天の狗(犬)」で、天を駆け回っていたもの、すなわち「流星」(彗星とも)であったそうで、慢心の権化ともされています。

善界坊、太郎坊ともに、不動明王を畏れながらも、我慢(自ら高ぶり他を軽蔑する)増上慢(未だ得ないものを既に得たと誇る)の心をもって、比叡山の僧正を我が天狗道に引き入れようとしますが、僧正の「聴我説者得大智恵…」と読経するや、散々の目にあってしまいます。天狗とは、こっけいなものとも見えますが、相手が高僧でなく普通の人であれば、たちまち天狗道に引き入れられ、高慢になってしまうのでしょう。私も「胸に手をおいて、よく考えてみよう」と思います。

天狗は自信たっぷりに僧正に向かい「あら物々しや、いかに御坊。今更何の観念をかなせる。」なにを大仰しい、今更なにを仏道修行するのか。無駄だ。「欲界の内に生まるる輩は、悟りの道やそのままに、魔道の巷となりぬらん。」欲界のこの世に生まれた者は、悟りの道に入ろうとしても、すぐ魔道の道に入ってしまうと、たいそうに言います。本当は相手にかなわないのに、いい気になって精一杯威張っています。ここで「不思議や雲の内よりも、邪法を唱ふる声すなり」と足拍子を七つ踏みますが、「善界」でも今回のように「白頭」と書いてある時は、音を立てません。雲の中で足を踏むから音がしないのでしょう。初めて「白頭」でさせて頂きました時、稽古を受け、名人が音をさせないで踏むと、「音を鳴らすよりも、もっと大きな音が空の上で響くように感じる。そのように踏め。」と教わったものです。喜多流ではこの拍子を「雲中の拍子」と呼んでいるそうです。粋な呼び方と思いますが、私共の観世流では、ただ「音無し」と書いてあるだけで、「雲中の拍子」の名称は使えませんが、心は同じであろうと思います。

そのように見て頂けると、大天狗に見えるかもしれません。

平成23年4月29日賀茂川荘薪能パンフレット用、上田拓司