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第9回 照の会 平成15年

平成15年11月6日

 

瓦照苑 仲光

瓦照苑 仲光

仲光/上田拓司   多田万寿/大槻文蔵  
美女丸/上田彰敏  幸寿丸/上田顕崇
あらすじ

 多田満仲は、一子美女丸を学問の為、中山寺へ預けております。しかし、美女丸は学問をせず、武勇ばかりに明け暮れており、父満仲は、藤原仲光に命じ、美女丸を呼び戻します。ここから能「仲光」は始まります。
 「こは誰が為なれば…、人に見せんも某が子と言う甲斐もなかるべし…」これは誰の為であるのか。人に見せても、誰某の子という甲斐もない。親が子を叱る時の、昔も今も変わらぬ心情です。満仲は、憤りのあまり、美女丸を手討にしようとします。更に、中に入って止めた仲光に美女丸を討つよう命じます。
 仲光は、主君に何と言われても、美女丸を落ち延びさせるつもりでいますが、頻りの使いに、ついに逃がす事が出来なくなります。「あわれ某、御年の程にて候わば、御命に代り候わんずるものを…」同じ年頃であれば、お命に代ろうものを…と嘆く仲光の言葉を、仲光の子の幸寿が聞きます。幸寿は「はや自らが首をとり、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候え。」と言います。美女丸も、自分の首をと言い、仲光はついに幸寿に太刀を振り下ろしてしまいます。
 満仲は、美女丸を討ったと報告する仲光に、幸寿を自分の子と定めると言います。仲光は、幸寿が美女丸のことを悲しみ、髪を切り出て行ったと言い、自分も様を変え、仏道に入りたいと言います。
 比叡山、恵心僧都が美女丸を連れて来ます。満仲もついには許し、めでたい事と僧都に所望され仲光は舞を舞います。「この度の御不審人ためにあらず。かまえて手習学問、ねんごろにおわしませと…。」この度の事は人のせいではありません。これからは、手習学問を熱心にするように…。仲光に言われ、美女丸は恵心僧都と再び帰って行きます。

「思いは涙、外目は舞の手…」

 私は「仲光」のような、非人道的な能はやりたくないと、長い間思っておりました。
 多田満仲は、息子の美女丸を中山寺へ、預けていました。しかし、当の美女丸が、「学問をば御心に入れ給わず、明け暮れ武勇を御嗜み候」という事で、満仲は「以っての外の御怒り」で、仕えている藤原仲光に、美女丸を殺してしまうよう厳命します。満仲は、大江山の鬼退治や、金太郎さんの名で親しまれている坂田公時の主君として名のある、源頼光の父です。多田源氏の名をと思うのか、「息子は立派に」と言うところでしょうか。
 美女丸は、父の言葉を物越しに聞き、「はや自らが首を取り、父御の御目にかけ候へ」と言います。自分が同じ位の年齢ならば身代わりになるものをと言う仲光に、仲光の子、幸寿が、「はや自らが首を取り、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候へ。」と言います。自分の首をと言い張る二人に並ばれ、仲光は、ついに自分の息子、幸寿の首を落としてしまいます。
 能には、愛があっての話が当然ながら多くあります。親が子を思う愛、恋人を思う愛、主従の愛…、等々。「仲光」は、子が親を思う愛を感じます。幸寿は、困っている父を前に、自分を身代わりにと言ってしまった様に思えてなりません。
 ずいぶん昔、いまは亡き父が深酒をし、なかなか家に帰らない事がありました。当時20歳を少し越えた私が、父のかばんを持ち、よく御伴をしておりました。酔った父が、隣の席の見ず知らずの方にずいぶん失礼な事をしておりました。私は、父を諌止する事も出来ず、もし、隣の方が怒って殴りかかってきたならば、すかさず自分の顔を出して代りに殴られようと心に決めて、ずっと様子を窺っていた事を思い出します。
 又、私の三男は、何度か幸寿をさせて頂いておりますが、「アホの為に死ぬ役は嫌や」と言うと、兄たちが、「美女丸と代ってやろうか」と言い、三男が「アホの役はもっと嫌や」などと言っているのを、横で黙って聞いております。
 美女丸が満仲に許され、仲光が舞を所望され、その座で舞を舞っている時の謡が「思いは涙、外目は舞の手」です。心は泣いているが、それを隠し人目には舞を舞っているのです。この舞を所望するのが、美女丸をかくまった比叡山の恵心僧都です。全てを心得て、あえて仲光に舞を所望するのでしょう。再び寺へ向かう時、仲光が「この度の御不審人為にあらず。かまへて手習学問ねんごろにおわしませ」と美女丸に言い、「幸寿が御供ならば」と「うちしおれてぞ留まりける」と終わります。
 以前、子供たちに、「お父さんやったらどうするか」と尋ねられ、「お父さんやったら、二人連れて逃げる」と答えた事がありましたが、本当に切羽詰ったらどうなるだろうかと、今でも本当には答えられないでおります。
 私共の次男は、今回の美女丸の役で、子方を終了させていただきます。昨年、今年と続いて紫綬褒章受章の、大槻、福王両先生、そして、父照也がこの世を去った後、長期に渡り上田の家を指導して下さった浦田先生に囲まれ、最後の子方を勤めさせていただきます。特に、以前拝見した満仲が忘れられず、師にツレを願うと言う失礼を顧みず、お願いしました所、即座に良い返事を頂きました大槻先生に感謝致しております。満仲には、その時はカッと短気を起こしても、やはり最後は、「子供が生きてさえいてくれればよい」と言う、親の姿を思います。
 美女丸自身は、その後改心したのか、名僧源賢となったそうです。幸寿の為に忠孝山小童寺を建立しその菩提も弔ったそうです。今もその地に「幸寿丸」「美女丸」「仲光」の墓が苔むしてたたずんでいると思うと、「思いは涙…」に続く「後れ先だつ浮世の習い」という謡が身にしみる様に思います。にとって美女丸の役で子方を終える事が、「大人への種」となって欲しいと思います。

子方を終えた、親子ともども今後ともご後援をお願い申し上げます。

「仲光」へ向けて (14年12月11日)

瓦照苑 岩船

瓦照苑 岩船

瓦照苑 岩船

撮影:牛窓雅之

上田宜照 15歳 面掛

「岩船」と「高砂」

「岩船」
神代に空中を飛行したと言われる岩船に、宝を積んで、龍神が難波の津、住吉へ漕ぎ寄せ、金銀珠玉を降らし、御世をたたえます。本日シテ着用の装束、黒紅段龍の菱文様厚板と萌黄地篭目模様法被、及び龍戴は、宜照の祖々父隆一より親子四代に渡っての使用です。

「高砂」
住吉明神が御代を祝って舞を舞給います。

面掛(めんかけ)

 私ども、能楽師と呼ばれる者には、生涯の中に、これが「区切り」と感じる事が、何度かあります。特に大きな「区切り」の一つが「面掛(めんかけ)」です。
 私共の長男、宜照の事を思い起こしますと、まず「誕生」。既に亡き父、照也より一字を使い命名。二歳で「初舞台」、七歳で「初シテ」。そして今年、十五歳で「面掛」。
 能は分業制になっており、上田の家は「シテ方」で「シテ」「ツレ」「地謡」「後見」を担当します。中でも「シテ」は能の主役であり、祖父の書付には「太夫」とも書かれており、座長がする役でありました。その「シテ」を初めて勤めるのが「初シテ」です。ただ「子方」の時代ですから、能面は使いません。そして今回初めて、能面を掛けます。これが「面掛」です。
 それ以外にも、能で大切に扱っております、「重習い」を初めて勤めた「千才」。声が変わりだし、あわてて勤めさせた「子方」の最後、「烏帽子折」。この「烏帽子折」は、舞台で烏帽子をつけ、元服をする牛若丸の役をする能で、一生に一度、子方の最後に勤めます。また、「関寺小町」の「子方」で、二時間半、座っていた事も思い出されます。足が痛い事は、私共も、身をもって知っておりますが、稽古の時より、「動くな!」と言わざるを得ません。小さな身体でよく頑張ったと思います。半年ほど前にも「淡路」の能の「ツレ」で、会の当日が土曜日だったので、学校は休みと思っておりました所、一学期の中間試験の最終日でした。まだ中学生なので、困ったなと思いましたが、学校の理解もあり、最後の一時間だけ休ませて頂き、一安心できました。
 これまでいろいろな事がありましたが、お力添えを頂きました方々に感謝致しております。今後もいろいろな事があると思いますが、この「面掛」にて、大人の中に交じり「シテ方」として出発させて頂きます事を、親として喜んでおります。
 宜照の伯父、貴弘に、祝いに「高砂」を願い、そして宜照本人には、めでたい「岩船」を、舞わせます。

平成15年6月 上田拓司

瓦照苑 上田宜照 初舞台

平成2年8月19日