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第5回神戸公演 令和3年

令和3年11月7日
於:湊川神社神能殿

 

瓦照苑 熊坂

瓦照苑 熊坂

瓦照苑 熊坂

「熊坂の長範六十三。」
私にとりまして、能「熊坂」のシテは初演は十九歳、そして初めて小書「替之型」をさせて頂いたのが三十五歳、五回目の能「熊坂」のシテでした。十六年間で五回の後、五十五歳で六回目、今回が七回目、六十二歳での「熊坂」です。そのほとんどを、三十代前半までにさせて頂いております。
「熊坂の長範六十三」。
能「烏帽子折」での言葉です。
私も予てより六十三歳になったら今生最後の「熊坂」をやろう、思っておりました。まだ六十二歳ですが、年々、身体が動かなくなってきたと実感しており、あと一年が待てず、今回させて頂く事にしました。
数え年六十三歳だから良いか、と独りで納得して決めてしまいました。
「義経記巻二、鏡の宿吉次が宿に強盗の入る事」に「窃盗の大将、由利太郎と申す者…藤沢入道と申す者を語らひて…その勢七十人連れて…」とあります。
この由利太郎二十七歳が三尺五寸の大太刀、藤沢入道四十一歳が大長刀を持ち、牛若に討たれ落命した盗賊の頭目です。
能「烏帽子折」では生きている熊坂長範六十三歳が登場し、何故か五尺三寸の大太刀で斬りくみ、生きている牛若丸に討たれ、能「熊坂」では熊坂長範の幽霊が登場し長刀で、牛若丸と戦い、討たれて落命した話をします。
由利太郎と藤沢入道を合わせて熊坂となっている様ですが、年令が四十一と二十七で六十八歳とされていたなら、その年令では能「熊坂」は無理だなと思います。
能を六十三歳で出来る様に、熊坂長範を六十三歳に設定した訳ではないでしょうが、六十三歳という年令は、今生最後に挑戦してみようという気にさせる、本当に微妙な年令と感じております。
十九歳初演の時は私もまだ学生の時で、父より稽古を受け、熊坂は六十三歳だから、常はドッシリと動き、イザという時はスパッと動けと言われましたが、長刀を振り回す事が、なかなか難しくもあり、楽しくもあり、そして、格好良くやりたい、見せたい、という思いで精一杯で、ドッシリなんて微塵もなかった事であろうと思います。
私も年令を重ねて考える事も多くなった様に思います。
「熊坂」も含めて、能には色々の人が登場します。、己の人生に「悔い」を残し、執心を捨てきれず、死後にもこの世に出てきて、僧侶に弔いを願うというものが多くあります。
能「熊坂」の後場、「夕闇の夜風烈しき山陰に、梢木の間や騒ぐらん」暗闇の中で、盗賊達が息を潜め、うごめく様に現われます。
「人の宝を奪いし悪逆。娑婆の執心これ御覧ぜよ。あさましや。」
自分でも浅ましいと思いながら、死後も盗賊の心を捨てる事が出来ないでいるのです。
昔の有様を語るのも、心が荒み、能「熊坂」の前場で言っていた弔いを願う心から離れてしまったような有様です。
牛若丸との戦いを回想しているときも、格好良く長刀を振り回すのではなく、怒りの心、憎しみの心を持って斬りかかっているのです。
間狂言の語によると、熊坂長範は、初めは正直な人であったのが、仮初に人の物を盗って、それ以来、盗みとは元手も要らず楽な事だと考え、又、大掛かりな盗みをしても一度も露見した事がなく、大盗賊となった人だそうです。
しかし終に牛若丸に討たれ、命を落としてから悔いたのでしょう。
旅の僧に弔いを願います。
僧の前で、昔の有様を語りながら、己の生きた道を思い、心より悔いあらため、悟りを得る事が出来れば成仏するのでしょうが、「末の世助けたび給え」と言いながら「赤坂の松陰に隠れ」る様に消え失せた熊坂の霊は、八百年以上の年月を経ても、まだ成仏できず、明日も明後日も現われるのです。
熊坂のように、人生を終えてから悔いる事のないように、日々を送りたいと願っております。能「熊坂」にふれて、そのように感じております。
  
熊坂 シテ 上田拓司

瓦照苑 芦刈

瓦照苑 芦刈

瓦照苑 芦刈

能「芦刈」の話は、平安時代の歌物語である「大和物語」のに見ることが出来ます。摂津国難波(大阪市)に住む夫婦は貧困のため離婚し、それぞれ別の人生を歩むことを選択します。
妻は都に上り、裕福な男性の後妻となりますが、ふと先夫の事を気がかりに思い、難波まで赴くと、先夫はみすぼらしい芦売りに成り果てていました。
哀れに思った妻は、芦を高く買おうとしますが、先夫はこの女性が、かつての妻だと気づき、自らの身を恥じて竈(かまど)の後ろに隠れ、「君なくてあしかりけりと 思ふにも いとど難波の浦ぞ 住みうき」(あなたと別れ、暗く寂しい日々を過ごしてきた。難波の浦は住み辛いところだ)と歌を詠みます。
妻はやむなく「あしからじ よからんとてぞ 別れにし なにか難波の 浦は住みうき」(二人より一人の方が、きっと上手くいくといって別れたのに、今になって難波の浦が住みづらいなどとは言わないでください)と返し、着物を与え、その場を立ち去るのでした。
このように原作の「大和物語」では、妻と先夫は再会しても結ばれることはありませんが、能「芦刈」では、先夫には日下左衛門という名が与えられ、再び結ばれた夫婦は人々に祝福されながら、共に都に上るように、改作されております。
能「芦刈」の先夫・左衛門は、妻にとって、自らがどんなに出世しても再び会いたくなるような「いい男」だったのだろうと思います。
実は、この能「芦刈」を務めるにあたり、「いい男とは一体何なのか」と本当に悩み、考えさせられました。
人には、それぞれ魅力があり、好みも千差万別でありますから、一概に「これだ!」というものを定義するのは難しいでしょう。
しかし、人を惹きつける「華やかさ」や、どのような局面にあっても精一杯生きようとする「ひたむきさ」。そういった外面ではなく内面からくる「芯の強さ」こそが、人が生きるにあたって本当に大切なものであり、本当の「人としての魅力」であるのだろうと、稽古を重ねる内に思えてきました。
左衛門登場後の第一声「足引きの 山こそ霞め 難波江に~」と謡った瞬間や、その後、深く被っている笠を取り、私の素顔が現れた瞬間、本日ご覧いただく皆さまに「あぁ。この男性なら追いかけたい。」と思われるほどの「魅力ある男性」であるよう、再び夫婦となり、共に都へ上る姿をほほえましく思っていただけるよう、工夫し精進して、この能「芦刈」を務めます。

芦刈 シテ上田 宜照