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第37回 照の会 神戸公演

令和6年11月23日
於:湊川神社神能殿

 

瓦照苑 景清

「麒麟も老いぬれば駑馬に劣るが如くなり」
 平家滅亡の後、平家の侍、悪七兵衛景清は、源氏によって日向の国宮崎に流され、年月を送っています。そこへ景清の娘、人丸が、今一度父に対面しようと相模の国より遥々尋ねて行くのが、能「景清」です。
 景清は目が見えず、他の人々の情けで命を繋いでいます。「みずから清光を見ざれば…」自分で光を見られない、しかし、「みずから」という言葉を、「自分からその様にした」ととれば、源氏の世を見るのを嫌って、自分で自分の目を潰したとも考えられるように思います。続く言葉が「とても世を、背くとならば墨にこそ、染むべき袖の、あさましや…」どうせ世の中に背くならば、墨染めの袖に、つまり、仏道に入るべきであるのに…、と。自分自身を捨ててしまっている思いです。
 娘の人丸が尋ねてきても、父とは名のりません。「この仕儀なれば身を恥じて、名のらで帰す悲しさ」心中悲しくとも名のらず、日頃世話になっている、土地の人に「悪七兵衛景清」と呼ばれ、「万事は皆夢の内のあだし身なりとうち覚めて、今はこの世に亡き者と、思い切ったる…」今さら景清という名を呼んでも答えるものかと腹を立てる…。
 親子と名のった後、「あわれげに古は…、麒麟も老いぬれば駑馬に劣るが如くなり。」昔の己と、今の自分。その違いへの思い、憤り…。
 娘に所望され、昔の屋島の合戦の折の、景清の名を上げた手柄話を始めると、まるで昔に返ったように話し出します。「いでその頃は寿永三年三月下旬の頃…」平家は船、源氏は陸、それぞれ陣を海岸に張って勝負を決しようとし、平家方は、なんとか源氏の大将、源九郎義経を討てないかと謀り事を探り、景清が陸に上がり、斬ってかかれば、敵は四方へ逃げ…。活き活きと話をする様子から、景清は今も昔の自分を誇りに思い、今の命の支えにしているのであろう事が思われます。
 この話を終え、「昔忘れぬ物語。衰え果てて心さえ、乱れけるぞや、恥かしや…」。我に返って言う事は「はや立ち帰り亡き跡を、弔い給え…」。自分は程なく死ぬので、跡を弔ってくれ…。「さらばよ、止まる、行くぞとの…」その場所に止まる親、行く娘。「セツナイ」という言葉では不足と思いますが、セツナイ別れです。
 景清の人物像としては、二種類あるように思います。一つは、今の身体は衰え果ててしまった景清。もう一つは、目は見えなくなったが、未だに気概を持って、平家の武将の面影を残した武骨な景清。身体衰えた景清は、能では、「鬚がなく、着流しの姿で、下に座り、昔の手柄話も座ったまま語る」という事になります。又、武骨な景清は「鬚をはやし、大口袴を着け、床几に腰掛け、昔の手柄話は立って動くので仕舞にもなっている」という形です。
 本日の能面は、髭のある景清(篠山能楽資料館所蔵、江戸時代初期の作)です。御貸し頂きました中西館長に感謝申し上げます。
 過去の栄光の思い出にしがみついて生きている。そんな印象の「景清」です。墨染めの黒い衣を着た景清の姿が舞台に最初に現れる時、まるで巌を思わすような存在でありたい。これが能のめざす「人間の表現」であり、有様である。私は、そう信じて舞台に臨んでいるつもりです。
 過去の栄光の思い出にしがみついて生きている。そんな印象の「景清」です。墨染めの黒い衣を着た景清の姿が舞台に最初に現れる時、まるで巌を思わすような存在でありたい。これが能のめざす「人間の表現」であり、有様である。私は、そう信じて舞台に臨んでいるつもりです。
景清 シテ 上田 拓司

瓦照苑 善界

技は心の姿を伝えます
 能「善界」は己の力を過信した魔物である天狗・善界坊が比叡山の高僧に法力比べを挑み、さんざんに打ち負かされるという物語です。
 一見、勧善懲悪をテーマにした分かりやすい演目であるように見えますが、今回演じるにあたり、よくよく掘り下げて考えてみると、なかなかに考えさせられる演目であるように思います。
 天狗は一説には、自らが仏になろうと必死に修行し、絶大な法力を得ることが出来たが故に、慢心から心に魔が差してしまい「仏道」から最も遠い「魔道」に転落してしまった山伏のことを指すといわれています。
 人は誰もが実力をつければ、人に褒められたい、認められたいと思うものですが、そこで「いや、まだまだ」と自らを戒め、努力をし続ける心の強さを失ってしまえば、その人物の成長は止まってしまいます。
 古来より、独りよがりに慢心している有様を「天狗になる」と言い表しますが、この物語に登場する天狗・善界坊の有様は、まさに「力」を得たものの、それを正しく使う為の「心」の修養を怠った者の悲しき末路であるように思えてなりません。
 私自身、今年三十六歳となり、いよいよ若手から中堅と呼ばれる年齢になってまいりました。
 二十代の頃には得ることができなかった様々な技術や感性を手に入れることができましたが、決して慢心せず、より気を引き締めて日々の舞台に向き合いたいと改めて感じております。
 傲慢で自らの実力を過信する天狗を演じる、能楽師・上田宜照の技の端々から「能に対する慢心」が見て取れるようなことが無きよう、私自身の「心に潜む天狗」を抑え込んで、能「善界」を務めます。

善界 シテ 上田 宜照