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第35回 照の会 令和5年

令和5年11月11日
於:大槻能楽堂

 

瓦照苑 邯鄲

「これなるが聞き及びにし邯鄲の枕なるかや」

 この能はずっとやりたい曲でした。十九の時、この照の会で初めて舞囃子にて勤めました。二十三の時、父に来年、この能をしてよいと言われ飛び上がるほど喜びました。暫くして、伯父にまだ早いと止められ年甲斐もなく号泣しました。それくらいには好きな能なのです。

 蜀の国の青年「盧生」は、仏教が大事とは知りながらも、人生そのものが夢で儚いものだという、仏の教えをどうしても信じきれず、日々を暮らしていた。そんなある日、楚の国の羊飛山に立派な知識(賢い僧侶)がいると聞き、自分の人生の岐路だ、と一発発起して羊飛山へ旅に出る。その道中、趙の国の「邯鄲の里」にて宿をとるが、そこで女主人から「来し方行く末(過去から未来)」を語る枕で寝ることを勧められる。主人が飯を炊く間、盧生は枕を使って微睡(まどろ)むと、途端に誰かに起こされる。見れば、楚の国の使いが自分にひざまずき、今日から楚国の王位を盧生が継ぐことを告げられる。気づけば輿に乗り、贅を極めた宮殿にて王としての煌びやかな日々を過ごし、気づけば五十年の月日を過ごす。ある時、臣下から千歳まで寿命が延びるという仙薬を献上され、王としての富・名誉だけでなく寿命まで手に入れた盧生は嬉しさのあまり自ら舞を舞う。しかし、あまりに早い時間の流れにおかしい、不思議だと思た瞬間、気づけば女主人に起こされ宿で寝ていた自分に戻る。すべては夢だったのか、と呆然とし、しかし、五十年の栄華も飯が炊けるまでのひと時の間「一炊の夢」に過ぎない、人生そのものが夢のようなものであると悟り、枕に深く感謝し、故郷へ帰っていく。
 
 今にしてみれば、伯父が止めたのもわかる特殊な曲です。ほかの能でもっと経験を積んで満を持してしなさい、そんな心があったのかもしれません。謡はもちろん、台の上を大宮殿と思い込んで「楽(がく)」を舞う滑稽さは、他の能にはない技術がいります。夢の世界から足を踏み外し目が覚めかける「空折(そらおり)」と呼ばれる箇所もこの能ならではです。
 一方で、自分がどう生きていくべきか、大なり小なり悩まない人はいないと思います。盧生は人生を悩む人の象徴です。能では仏教要素が強くなっていますが、元々の中国唐代の小説「枕中記」では自分の人生に不満を持っているだけの青年です。この能に用いられる面「邯鄲男」は眉毛にしわを寄せた悩める人の顔なのです。枕に出会い、夢の中で王になる。夢の中の盧生は大変態度が変わります。座り方も声も立派で理想の自分になっています。夢から覚めた後の盧生は呆然とします。自分の五十年の栄華が一瞬で消え去り、ただの青年に戻ってしまったのです。この話を人にすると、なんて悲しい、と盧生を哀れむ人もいます。しかし、彼は「南無三宝!」と感動して手を打ち、人生の儚さを実体験して知れたことを喜ぶのです。
 二十三から数えて七年間、色々ありました。今日ご来場いただいた方に支えられて今、この能を勤めることができます。すべてが夢であの時に戻ってしまったら― 盧生のようには悟れませんが、きっと大丈夫とあの時の私に言ってやりたく思います。

邯鄲 シテ 上田顕崇

瓦照苑 實盛

瓦照苑 實盛

「跡弔ひて賜び給へ」

 寿永二年、木曽義仲の旗揚げに対し、平家の北陸道への出兵で、平家方が敗れる中、實盛は最後まで戦い、六月一日に命を落としました。
 それから二百年余り経った応永二十一年三月十一日、まさにその場所、加賀の国篠原で時宗十四代遊行 他阿弥上人が、七日七夜の別時念仏を催した四日目の日、上人のもとに白髪の老人が現れ十念を受けて姿を消したが、上人以外の人々には老人の姿が見えず、言葉も聞こえません。これが「實盛の幽霊である」という風聞がたち、すぐに世阿弥が能にしたのが能「實盛」です。

 シテ「實盛」は、死後二百年余りも「魂は冥途にありながら魄はこの世に留まりて」の状態で成仏できないでいたのに、「ただ上人の御下向(ごげこう)、偏に弥陀の来迎なれば」と、弔いをうけ大喜びします。しかしながら「なおも昔を忘れかねて」と懺悔物語を三つ話しだします。
 一つ目は、討死後の首実検の時のお話。七十三歳でこの世を去った實盛は、「六十に余って戦をせば…老武者とて人々に侮られんも口惜しかるべし」と白髪を墨で染めて戦に出ると常々言っていたとのことで、私も六十四歳と「六十に余り」、思い当たることが多々あるようになりました。
 二つ目は、出陣するにあたり、「この度北国に罷り下りて候わば、定めて討死仕るべし」故に、「故郷へは錦(にしき)を着て帰る」と、平宗盛から錦の直垂(ひたたれ)をもらい、越前出身の實盛は故郷に名を上げることができたという話。この話も大なり小なり、私を含め誰もが似たようなことを思うでしょう。
 三つ目は、討死した時の経緯のお話です。「その執心の修羅の道、廻り廻りて又此処に、木曽と組まんと企みしを」最後は木曽義仲と戦って…と考えていたのに、果たせず「無念は今にあり」と。その昔、大蔵合戦で源悪源太義平が、叔父の源義賢を急襲して討ち取った後、幼い義賢の子、駒王丸を基礎の中原兼遠のもとへ送り届け、命を救った人が實盛です。そしてこの駒王丸こそ、後の木曽義仲です。「廻り廻りて」の詞も感慨深く思えます。また木曽軍の手塚太郎光盛と戦う中で、「老武者の悲しさは戦には為つかれたり」と、「終に首をば掻き落とされて」。これも同じく、六十四歳の私には、思い当たることが多々あります。

 私自身、十年前に五十四歳で初めて實盛をさせていただいた時より実感がわくようになりました。
 現代でも時宗総本山、清浄光寺(游行寺)の歴代游行上人は一代一度の游行の際、實盛供養を当地で供養を行う習わしで、平成十七年五月十三日に游行七十四代 他阿弥陀仏真円上人が供養をされたそうです。實盛の幽霊は、今も能「實盛」の最後の詞どおり「跡弔ひて賜び給へ」と思い続けているように思います。

實盛 シテ 上田拓司