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第3回神戸公演 平成31年

平成31年6月30日
於:湊川神社神能殿

 

瓦照苑 三輪

瓦照苑 三輪

瓦照苑 三輪

撮影:牛窓雅之

「それ神代の昔物語は末代の衆生のため…」

 能「三輪」のお話です。
 大和国三輪に山居している玄賓僧都の所へ、毎日樒閼伽の水を運んでくる女がおり、ある夜、秋の夜寒の為、衣を乞われます。玄賓が衣を与えて住居を問うと三輪の里、杉立つ門が目印と告げて消えてしまいます。
やがて里人が、三輪の神杉に衣がかかっていると知らせに来、玄賓僧都が訪ねると、衣の裾に神の歌がしるされています。そこへ三輪明神が現れ、三輪の妻問い神話と、天照大神の天岩戸に隠れた神話を語り、夜明けと共に消えてしまいます。
 最初、樒閼伽の水を運んでくる女は「三輪の山もと道もなし 檜原の奥を尋ねん」道もないような所に、檜の森に入って行き「あさましやなす事なくて徒らに 憂き年月を三輪の里に 住居する女にて候」何の為す事もなく、ただただ年月を送り、三輪の里に住んでいる、と言います。隠徳の聖、玄賓僧都も「山田守るそほずの身こそ悲しけれ 秋果てぬれば訪ふ人もなし」秋の取入れ後の案山子のように誰も訪ねて来ないと言っています。「秋も夜寒になり候へば」と衣を乞うまで、寒々とした秋の風情が想像出来ます。
 住処を尋ねられて、答える頃より、女は少し神々しくなって消え失せます。玄賓僧都が二本の杉に衣を見、神が現れる時、又、神楽の始まりの時、「ちはやぶる(神)」と謡われます。三輪は山全体が神であり、その三輪の山中に「ちはやぶる」と、品位のある気高い「神の声」がツーッと伸びやかに響いているように思います。
 「白式神神楽」では、天照大神の天岩戸の神話を語る時、「岩戸の前にてこれを歎き」と天照大神が天岩戸に隠れて常闇の世となって、八百万の神たちが暗闇で歎いた様を、「スリビョウシ」という演出で表現します。大鼓が打ち、足拍子を踏み、小鼓が打ち、太鼓が打ち、と順に進んでいくのが、暗闇で手探りで動いている様を現していると言います。天鈿女命や外の神々が華やかに舞い、天岩戸を開き、又常闇の雲が晴れ、人の面が白々と見えるまでの神話、又、先に語られる神婚説話に、皆様と共に触れ、令和の新たな時代の寿ぎとなるよう願っております。

三輪 白式神神楽 シテ 上田 拓司

瓦照苑 放下僧

瓦照苑 放下僧

撮影:牛窓雅之

 「放下」とは禅宗で一切の執着を断った僧のことを指しますが、後にそれを模倣した大道芸人の事を指す言葉となりました。
 本曲は牧野兄弟がその「放下」に扮して親の仇、利根信俊に近づき、様々な「芸」をみせて油断したところを打ち取り見事本懐を遂げる、所謂「仇討ちもの」と呼ばれる作品です。
 「芸」というと「舞」や「踊り」など、華やかで動きのあるものを想像しがちですが、ここでいう「芸」とは、様々な禅問答に対し、瞬時に粋な答えを用意出来る「教養」や「機転」「胆力」等から生まれる「話芸」等も含まれ、ただ奇をてらった「見せかけの芸」ではなく、本心を悟られない「腹芸」を演じなければなりません。
 一見奇抜な衣装を身に纏い華やかで愉快な舞を舞う大道芸人を装いながら相手の油断を誘い、暗殺の機会を待つという一癖も二癖もある人物をどう演じきるか。本曲が「芸尽くし」と呼ばれる所以であり演じ手の高度な技術が試されることとなります。・・・気性が荒く、すぐに思ったことが顔に出てしまう短慮な性格の私には中々に難しい課題です。
 ところで能には各家々に「型附(かたつけ)」と呼ばれる台本があり、私たち能楽師はその型附に書いてある事通りに寸分違わず舞台を演じます。
 然し乍ら、何も考えず只々それを黙々と務めるのではなく、その曲の作者が何を考え、その曲を通してどのような想いを発信したかったのかという事に、役者が想いを馳せ、理解し、その上で自らの解釈を曲の中に落とし込むことが重要だと私は考えます。
 本曲であれば、人とのつながりや親子の情愛までもが希薄になりつつある現代社会に、親子の情や人としての在り方を改めて問いかける作品なのではないでしょうか。
 自らが道化となってでも、人として子として、やらねばならない事がある。仇討ちを肯定するわけではありませんが、この兄弟の想いには私なりに共感するところがあります。
 「放下僧」に限らず各曲の中にある教訓や想いを発信し後世に伝える事こそが我々能楽師の存在意義であり、能が「過去」の芸能ではなく「今」の芸能である所以であり、七百年変わらずあり続ける「能」の最も大きな魅力でもあります。
 今は亡き先人たちが何を想い、何を考えこの曲を書き上げたのか、それを私なりに咀嚼し推敲しながら上田宜照の考える能「放下僧」を作り上げたく思います。

放下僧 シテ 上田 宜照