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第21回 照の会 平成27年

平成27年10月10日

 

瓦照苑 屋島

瓦照苑 屋島

瓦照苑 屋島

 都方の僧が西国行脚の途次、讃岐の屋島に立ち寄り、源義経の幽霊に出会います。

僧が屋島で宿を借りたのは、実は源義経の幽霊です。源義経は、前半には屋島合戦での、景清と三保谷四郎の錏引き、佐藤継信の討死、と義経配下の武勇忠節の話をし、後半には自身の弓流の話をします。そして死後も修羅道で敵と今も戦っている様を語り、夜明けと共に消え失せます。

前半は、自分を義経とは名乗りませんが、軍物語は自分自身の体験であり、まるで人事のように語りながらも、自分自身の心の中には甦ってきている様に思えます。語りの初めが、合戦の時の義経の出で立ち「赤地の錦の直垂に、紫裾濃の御着背長、鐙踏ん張り、鞍笠につっ立ち上り、一院の御使、源氏の大将、検非違使、五位の尉、源義経と、名乗り給いし…」。立派な大将でしたよ、というように語るのが、誇らしげで、自慢しているような気がします。続いて錏引き、佐藤継信の討死の様子を語るにつけ、次第に詳しく、ついには立ち上がり語ります。ひょっとすると、義経の幽霊自身の目には、その時の有様が甦って見えているのかとも思います。

その様子を見て、僧が「不思議なりとよ海士人の、あまり委しき物語、その名を名乗り給えや」と言うのです。ましてや後半は、義経の幽霊と名乗り、合戦の様子を語っている時は、その時の合戦の様が、本当に目の前に甦っているのだと思います。

「大事」の小書は、「弓流」「素働」の二つの小書をまとめたもので、

「那須」の狂言間語りも、狂言方の重い習いの替間で、那須与一の扇の話を仕方話で語ります。

 弓流は、屋島合戦の途中、源義経は自身の弓を手から落としてしまい、引き潮で敵の方へ流れていく弓を、危険を冒してまで取り返した話です。義経が小兵であった事はよく知られ、阪神タイガースの吉田元監督が内野手として活躍された現役時代、小さな身体で華麗なプレーをする事で、牛若丸と呼ばれていたものでした。弓を平家方に取られ、源氏方の大将の弓は弱弓で、敵の大将は小兵であると言われたなら、自分の名も落ち、味方の士気にもかかわる事でしょう。「弓流」の小書演出は、義経が立ち上がり、弓に見立てた扇を、手から「ポトリ」と落としてしまうものです。屋島の合戦は、源平互に大軍ではなく、平家方が船に乗って海上へ逃れてから、小競り合いの様な戦いが数度あったという様な合戦です。軍の進展のない様子に義経は「フ」と弓を落としてしまったのかな、と思います。

「判官びいき」「牛若丸」等の言葉で人々に親しまれている源九郎義経は、源平合戦での英雄です。その義経も、死後は修羅道に落ち、自分で自身を苦しめています。

私は「屋島」を初演させて頂きましたのは、二十代半ば、「志の会」でした。父照也が死んだ時、私は二十四歳。父が死んで日も浅く、父が死後も「謡」を謡っているような気がして「屋島」を勤めさせて頂きました。私にとって二回目の「屋島」は三十代前半、「長田能」でした。その時は、父に「もう良いでしょう。安らかに眠って下さい。」との思いで「屋島」を勤めさせて頂きました。十年程前、父の二十三回忌追善の会で初めて「弓流」をさせて頂きました時、後シテに観世宗家所蔵の「白平太」の本面を使用させて頂きました。袋から出した瞬間、「これが修羅の顔か」と思い、なんとなく「恐ろしい」と感じた事を記憶しております。(今回は上田家所蔵の「白平太」を使用します。)

能の修羅物の中でも、「田村」「箙」と共に勝修羅と呼ばれます。自己の生前の勝ち戦での手柄を死後も強く思っており、他の負修羅と言われる曲と違い、自らの生前の事を悔いもしませんし、僧に対して弔いを求めません。死後も心が猛々しく、違う見方をすると、成仏とは程遠いとも思えます。

前半、旅の僧が都の人と聞き、「げに痛わしき御事かな」と宿を貸し、「我らも元はとて、やがて涙に咽びけり」と涙を流します。都の人がこんな場所で日も暮れ、宿もなく、痛わしいという事でしょうが、義経自身の一生の中の、都での事も含め、極短い華やかな頃が思い出され、旅の僧と重なり、「涙」が湧くように出てくるのだろうと思います。

何時の時代も平和を愛する人々の心は変わりません。能「屋島」は私たちに何を語ろうとしているのか、などと考えております。

平成二十七年十月十日 照の会 拓司

瓦照苑 猩々 乱

「覚むると思えば泉はそのまま。尽きせぬ宿こそ。めでたけれ」
(謡曲『猩々』より)

 妹に怒られました。曰く、お兄ちゃん(私)は何にでもなれたのに能楽師なんかになってしまって、友達に自慢もできない、だそうです。返事に困って苦笑している私が居ます。然し、後悔しているわけではないのです。

昔、中国に親孝行な高風という若者が居りました。彼は不思議な夢の告げのままに市に出て酒を売り、年月を経る内に富貴の身となっていました。その高風の店に、また不思議な常連客が居りました。盃の数は重なれども面色は更に変わらぬその客に、ある日高風が名を尋ねると海中に住む猩々と答えます。自分を裕福にしてくれた夢の告げの主と悟った高風は、お礼のつもりなのでしょう、夜もすがら酒を用意して潯陽の江のほとりで猩々を待ちます。やがて猩々が海を渡って現れ、月星澄む酒宴の中、舞を舞い、高風から振る舞われた酒の壺を、酒の湧き出る泉の壺にして返し与えます。遂に二人とも酔いが回り、高風がふっと気づいて夢かと思えば泉の壺が側にある、その後この家は途絶えることがなかった、という終わり方をします。

 能「乱(みだれ)」、「猩々乱」とは能「猩々」の小書(特殊演出)のことです。詞章として省く所があるわけでなく、追加されるわけでもありません。目に見えて変わるのは謡から囃子に引き継がれた舞の部分が、乱の型になることです。菊の水である酒に戯れ、江の波の上にて水を弄ぶ様を「乱」と名付けたのでしょう。

 十七、八の頃、あることがきっかけで能を捨てようとしたことがありました。どうせ働くならば、やりがいのある職に就きたい、社会に貢献したい、警察官になろうと思い立ちました。父に相談し、色々な言葉が帰って来たのですが、その中で今も考えさせられるのが「能も社会に貢献する職業だ」と言われたことです。父も若い頃ずっと能の社会における意義を考えていたといいます。父曰く、能は見た人が元気になれる、明日から頑張って生きていこう、そう思わすことのできる仕事とのことです。前半を略し祝言のものとした猩々など、まさにその類の能なのでしょう。ですが、正直に申しまして、今の私の能に人を奮い立たせる力があるとは思えません。なにより、そもそも能が本当に社会を支えることのできるものなのか、その根拠を見つけられないままでいます。ただ思うのは、父が本当に能の社会的意義を見つけ、そして見据えているのなら、その夢に沿うてみたいのです。やがて夢が覚めても何かが残ることを信じて成してみたい、こういう下らぬことを思う青二才に過ぎません。それでも、私の力不足を支えてくださる諸先輩方の力を借りて、よい能をつとめられるように能楽師20年目の舞台に臨みたく存じます。

平成27年度照の会 能「乱」によせて 上田顕崇