安達原 黒頭 長糸之伝 急進之出
「かほど儚き夢の世を、などや厭わざる…」
能「安達原」は、「貧困」を扱った曲です。
那智の東光坊の阿闍梨祐慶と同行の山伏が、廻国行脚して陸奥の安達原まで来ます。日が暮れたので火の光を頼りに宿を求めます。その家には一人の女性が世を侘びつつ住んでいます。祐慶一行は宿を謝絶されますが、強いて借ります。ようやく家に入れてもらった時の文章が「異草も交じる茅筵、うたてや今宵敷きなまし。しいて(強いて、敷いて)も宿をかりごろも(借り、狩衣)、片敷く袖の露深き、草の庵のせわし(狭し、忙し)なき、旅寝の床ぞもの憂き。」<筵も茅だけでなく、違う草も交じっている様な粗末なもので、今宵はこれを敷いて寝るのか…。無理強いして借りた宿で、独り寝をするのは、なんとなく露深く、じめじめしており、忙しなく落ち着かない。旅寝の床は辛いものだ>宿に借りた家は、貧困の為、きゅうきゅうとしたものでした。家の主は口には出しませんが、貧困の為、これまで旅人等を殺して食べてしまっていたのです。
桛桛輪を廻し、糸を繰りながら「ただこれ地水火風の、仮に暫くも纏わりて、生死に輪廻し、五道六道に廻る事、ただ一心の迷いなり。およそ人間の、徒なる事を案ずるに、人さらに若き事なし。終には老いとなるものを。かほど儚き夢の世を、などや厭わざる。我ながら、徒なる心こそ、恨みてもかいなかりけれ。」<人間も含め万物は地水火風の四大元素が仮に纏わりついて命が宿り、人間になったり、違うものになったりするのも、心の迷い、その持ちようである。人間の徒である事を考えてみると、老いるという事である。このように儚い世をどうして厭い、捨ててしまわないのか、我ながら良くない心を恨んでも、どうもならない事だ>このように話をする家の主の心は、自分のこれまでの悪行を思い、旅人に親切をふるまい、善行を積み、後生、すなわち次に生まれ変わった時に少しでも良くなる様にと思っているのでしょう。人を殺して食べるなど、戻る事の出来ない罪を犯した者の、せめてもの願いなのでしょう。糸尽くしの歌を謡い乍、いつまでも続く糸の長い事と、同じく続く自分の辛い一生が、ふと重なり、主は泣き伏せてしまいます。
祐慶の御伴が、ひそかに主の閨を見て、夥しい死骸に驚き、祐慶達は逃げ出します。家の主は、違約を恨み追いかけます。「般若」という角の生えた鬼の面を使用しますが、これが主の怒りに溢れた心の顔です。祐慶の祈りの声「見我身者発菩提心、聞我名者断悪修善、聴我説者得大智恵、知我心者即身成仏」<我が身を見る者は菩提の心を発す、我が名を聞く者は悪を断ち善を修める、我が説を聴く者は大智恵を得る、我が心を知る者は身を即ち仏と成す>は、後生を願い善行を少しでも積みたいと願った家の主にはどのように聞えたのでしょうか。「たちまちに弱り果てて、天地に身を約め、眼くらみて、足もとはよろよろと」鬼の形相の女主は、祐慶の祈りの言葉に、体が弱ったのではなく、心が弱ったのでしょう。「恥ずかしの我が姿やと、言う声はなお物すさましく、言う声はなおすさましき夜嵐の音に、立ち紛れ失せにけり」どこかへ失せてしまったこの女の声は尚すさましく、救われたとか、心より悔い改めた等とは、とても思えません。明日もまた別の旅人が来ると、同じ事をやってしまうのでしょう。
平成26年11月8日 照の会 安達原黒頭 長糸之伝 急進之出 上田拓司
前シテ
後シテ
「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」
(謡曲『羽衣』)
羽衣は、最近、富士山と共に世界遺産に認定されたということで話題に上った三保の松原の物語です。春風長閑な朝に白龍という名の漁師が天女の羽衣を見つけ、天女に衣を返す代わりに天上での舞を見せてもらう、筋としては非常に単純です。然し、能を代表する名曲の一つとされており、成程と思わされる曲です。
仏教世界において、衆生は六道に輪廻しており、その中に天道があります。天道に生まれた人を天人と呼び、人間界の上、空の上の天上界に住んでいるとされます。天上では喜怒哀楽を持つ必要がないほど満たされた生活を送り、これ故に天人の能面には、「増」という、他面と比較して、感情の現れにくい面を用います。
その天人が能の中で天上界に帰れないと涙を流します。祖父曰く「冷たい涙がつーっと頬をつたう」とのことで、現の人のようにシオルな(泣くな)と父の稽古にて教わりました。悲しみのない世界の天人が、人間界で初めて悲しみに出会って、然し泣き方もわからない、その様子に心なき白龍も哀れに思い、衣を返すことを思い立つのです。
但し、さすが自ら「心なき」と自負するだけあって、白龍はただでは返せないと、天人の舞を所望します。白龍の願いに天人が衣無しでは舞えないので先に返すよう告げると、白龍は返したらそのまま天に昇ってしまうと、疑います。これを受けて天人は「疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」とただ一言告げるのです。偽り・嘘は人間界にあり、天上界には存在しない、この言葉に白龍は人間としての当たり前、偽りのある世界に住む自分を恥じて衣を返すのです。
月の宮殿では天人が白衣十五人・黒衣十五人に分かれ、毎夜十五人ずつ舞を舞う、とされています。始めは黒衣が十五人、一日経つごとに一人ずつ白衣と入れ替わっていき、十五日経つと白衣だけとなります。これが満月です。また、一日ごとに一人ずつ黒衣と交代していき、月の満ち欠けを繰り返すのです。その月が闇夜を照らす様から、衆生の生涯の闇路を照らすことになぞらえて「真如の月」と呼び、大勢至菩薩の化身とされます。または、「望月」ともあるように満月は願いの成就の象徴でもあります。その光の根源が天人なのです。
この曲は、一曲の中で朝に始まり昼を過ぎ紅を帯びて月夜となり明けると共に終わります。清らかな松原の一日の情景と共に、人間界とは異なる天上界の一端に触れていただければ、と思います。
平成二十六年十一月八日 上田顕崇