信濃の国安田の荘司友治は望月秋長に殺されてしまいます。その十三年後のある日から、能は始まります。
安田の家臣の一人、小澤刑部友房は、近江の国守山の宿で甲屋という宿の亭主になっています。そこへ、安田の妻と子の花若が、そして望月が、偶然泊まります。
小澤は甲屋の亭主となった理由を「さる子細候ひて」と言っていますし、安田の妻子も「多かりし従類も散り散りになり…」「敵の所縁の恐ろしさに…」「何処とも定めぬ旅…」と言っております。
また望月は安田を殺害した罪科で、十三年間在京していましたが、「されども緩怠なき由聞し召し開かれ」、喜んで、信濃の国へ帰るところです。流儀が変ると「よき縁を以って申し上げて候へば…」と言う言葉もある様です。
望月は安田を殺害し、本人は京都で裁きを待ちながら、賄賂も使い、又、国元では、口封じの為か、安田の家族、家臣に危害を加え、その結果、十三年後には、安田の妻子は流離の旅をし、数多くいた家臣は散り散りになり、望月本人は無罪となり、国元へ帰る喜びの旅路についたと言う事になります。
現代でも、内容は違っても、被害者が泣き寝入りをする事も多くあるように思います。当然被害側にも加害側にも、言い分はあるのでしょうが、大方の人々が「許せない」と考える事は、ほぼ一致すると思います。たとえ裁判で無罪になっても、人々の心が許さない事もあるという事でしょう。この判断の基準が「善悪」という事でしょうか。そう考えると、正確な情報、現代ならば報道の大切さが思い知らされます。
さて、甲屋で、久々に対面をした旧主従ですが、花若は「父に逢いたる心地して…」と、そして小澤は「別れし主君の面影の、残るも今は怨めしや。」と涙に咽びます。さぞ辛い日々であったろうと思います。
そこへ偶然、望月も泊まり、小澤は、「天の与ふる所…」と考えます。望月の座敷で小澤が酒を勧め、安田の妻は流行の盲御前として謡を謡い、花若は八撥を打ち、小澤は獅子舞を舞います。そして、寝てしまった望月をついに討ちます。
安田の妻の謡は、曽我兄弟の敵討ちの話ですが、幼い曽我兄弟が持仏堂で、不動に敵を討たせてと願っている所で、花若は興奮したのか、つい「いざ討とう」と声を上げてしまいます。積み重なった辛い年月を感じさせられてしまいます。しかしその時の小澤の取り計らいに、胆を据えると言う事、大人と言う事を感じます。
私は、子方の頃、酒を飲ませて騙し討ちにする事に、反感を持っていました。しかし、非道を行う強力な者に対する、力なき者の心を思うと「この年月の恨みの末…」の謡の文章に、心が寄ります。又、法治国家である、現代の日本に住んでいて、敵討ちと言う事自体に疑問を持っておりましたが、日々の様々な事件をみている内に、「法」と「善悪」と言う事を考える様になりました。その上で、能「山姥」等で言う様に「善悪不二」と言う事についても、より考えさせられております。
今回は、狂言「貰婿」を、「望月」に先立って上演させて頂きます。私も、「貰婿」で、夫婦とはこんなものだなあと、よく感じさせられております。本来ならば。何事もなく、幸せに暮らすはずの安田一家、という事をしみじみと思いやります。
子方 上田顕崇
後シテ
能「望月」では、敵を油断させる為に、安田の妻、花若、小澤の三人が、「謡」「八撥」「獅子舞」の芸を演じます。その座敷では、敵の望月主従が片手に盃を、もう一方は肘掛にでも置き、足をくずし、くつろいでいるのでしょうか。そこで行われる「お座敷芸」は、さぞユッタリと時間が流れていく事でしょう。
〈盲御前の謡〉
「それ迦陵頻伽は卵の内にして声諸鳥に勝れ、鷙と云う鳥は小さけれども、虎を害する力あり。
ここに河津の三郎が子に、一萬箱王とて、兄弟の人のありけるが。五つや三つの頃かとよ。父を従弟に討たせつつ。既に年経り日を重ね、七つ五つになりしかば、稚かりし心にも父の敵を討たばやと、思いの色に出づるこそ、げに哀れには覚ゆれ。
或時兄弟は、持佛堂に参りて、兄の一萬香を?き、花を佛に供ずれば、弟の箱王は、本尊をつくづくをまもりて。いかに兄御前聞し召せ。本尊の名をば我が敵、工藤と申し奉り、劔を提げ縄を持ち、我等を睨みて、立たせ給ふが憎ければ、走りかかりて御首を打ち落とさんと申せば。兄の一萬これを聞きて。いはけなや。如何なる事ぞ佛をば、不動と申し敵をば、工藤と云うを知らざるか。さては佛にてましますかと、抜くいたる刀を鞘にさし、免させ給え南無佛。敵を討たせ給へや。」
〈幼き者の八撥〉
「吉野龍田の花紅葉。更科越路の月雪。」で始まる、鞨鼓の舞。
〈宿の亭主の獅子舞〉
「獅子團乱旋は時を知る。」(ししとらでんはときをしる。)で始まる、獅子舞。獅子舞も、能「石橋」の用に本物の獅子が登場するのではなく、酒の座敷で、「ホコリを立てぬ様に」客の前で舞っているのでしょう。
能の客席に酒は出ませんが、舞台の上の望月主従も眠ってしまうのですから、どうぞ、ユッタリご覧下さい。(文、上田拓司)