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第1回 神戸公演 平成29年

平成29年4月9日
於:湊川神社神能殿

 

瓦照苑 高砂

瓦照苑 高砂
照の会神戸公演 高砂 上田拓司

 新たに始めさせて頂きます神戸公演に、おめでたい「高砂」を勤めさせて頂きます。

 現代でも「高砂」の老人夫婦の「高砂人形」は、長寿と夫婦円満の縁起物として、結納品として飾られます。尉(おじいさん)が持つサラエは福をかき集め、姥(おばあさん)が持つ杉箒は邪気を払い、夫婦共(相生)に助け合って長く生きる事を示します。古来、松は神が宿る木とされ、常緑(一年中元気)で、長寿です。このめでたい相生の松の精が人間の姿となって現れたのが、高砂の老人夫婦です。相生の松(雄松の黒松と、雌松の赤松が一つの根から生え出た松)は日本各地に点在するようですが、高砂の相生の松にはイザナギ、イザナミの二神が「我は今より神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」と告げられ特に神木として現在も祀られています。

  能「高砂」で、九州阿蘇の宮の神主友成(ワキ)は、尉(シテ)が「この尉は津の国住吉の者、これなる姥こそ当所の人なれ」と言うのを聞き、「不思議や見れば老人の、夫婦一所にありながら、遠き住吉(すみのえ)高砂の、浦山国を隔てて住むと、云うは如何なる事やらん。」という言葉に対し、姥は「山川万里を隔つれども、互に通う心遣いの、妹背(夫婦)の道は遠からず。」といい、尉は「高砂住吉(すみのえ)の、松は非情の物だにも、相生の名はあるぞかし。ましてや生ある人として、年久しくも住吉(すみよし)より、通い馴れたる尉と姥は、松もろともに、この年まで、相生の夫婦となるものを。」と答えます。現代でも単身赴任等、何らかの理由で夫婦別居する方々に通じる思いです。結婚披露の宴で、新郎新婦の席が高砂の席とされ、「高砂」の謡が謡われる事も、嬉しく思われます。

 松の精と名のった尉に「住吉にまず行きて、あれにて待ち申さん」と言われた神主友成が、船に乗って住吉に着き、影向した住吉明神の寿ぎを喜ぶのが「高砂」の後半です。神は、まず「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾代経ぬらん」「睦ましと君は知らずや瑞垣の久しき代より祝い初めてき」と住吉所縁の歌を二首歌い上げます。いかにも涼やかな気がします。
「松根によって腰を摩れば、千年の緑、手に満てり。梅花を折って頭に挿せば、二月の雪、衣に落つ」松の根の所で、松の葉の緑色が両手に溢れ、腰を摩ると少々の腰痛など治ってしまい、寒い時期に梅の花を折って髪に挿すと、梅の白い花びらがハラハラとかかり、心地良く花の香りが匂ってくるように思えます。
住ノ江の海に松の影が映り、波が青く見えるのが「青海波」であり、神の腕をさすと悪魔を払い、手を収めると寿福を抱き、千秋楽を奏でると民を愛撫し、万歳楽を奏でると命を延します。人間には相生の松に吹き来る風の音が颯々と聞えるのが心地良いと感じるだけかもしれません。

 「高砂」等、神が寿ぐ曲はそのストーリーの単純さからか、最近は上演される事が少なくなって参りました。しかしその強い生命力といいますか、幸せになりたいと思う心は、能の最も基本であり、若い頃には必ず「高砂」等、脇能と呼ばれる曲をさせられるものです。悲しいと思う心は、幸せになりたい心が挫折するから悲しいのであって、初めから「私は悲しいです」という風にやると、誰も同情もしてくれず、弱々しいものになってしまい、能でなくなってしまいます。神の舞は、人間が舞うスピードを超えた速さで演奏されます。特に今回は緩急の付く八段之舞の小書が付いており、私の年齢、体力を考えると今回が最後になるかもしれませんが、その場にいらっしゃる方が皆、元気が増すという舞台であるべきと考えております。

上田拓司

瓦照苑 雷電
照の会神戸公演 雷電 上田宜照

瓦照苑 雷電

 菅丞相(菅原道)は学問の神様「天神さん」として、受験の時などには多くの方が御参りに行かれます。
菅原道真は大変な秀才でしたが、九州の大宰府へ左遷され、失意の内に死んでしまい、その後、京の都で雷が落ちたり、地震があったりしたのを、道真の恨みのせいだと皆思い、神様に祀るからおとなしくして下さいということで「天神さん」になったのだ、と子供の頃に、よく聞かされたものです。実際、道真の死後、政敵藤原時平は若くして病死、頻繁に洪水、大火、大風、疫病、渇水などが自然災害にみまわれ、極めつけは清涼殿への落雷で、道真の左遷に関わりのあった藤原清貫の死等、人々は恐れた事と思います。

 能「雷電」では前半、菅丞相の幽霊が、生前に教えを受け大恩ある比叡山延暦寺の法性坊律師僧正のもとヘ現れ、生前の感謝、死後の弔いの御礼を言います。しかし「鳴る雷となり内裏に飛び入り、我に憂かりし雲客を蹴殺すべし」と怒り、僧正に内裏に召されても参らぬよう言います。ところが僧正に「一二度迄は参るまじ」「勅使三度に及ぶならば、いかでか参内申さざらん」と言われた途端、鬼の姿となり、本尊の前に供えてあったザクロを「おっ取って噛み砕き、妻戸にくわっと吐きかけ給えばザクロ忽ち火炎となって扉にばっとぞ燃え上がる」と激怒しますが、僧正の落ち着いた対処に消え失せます。

 後半、内裏に召された僧正は祈り、雷の姿となった菅丞相は鳴り廻りますが、終に静まった菅丞相は、帝より天満大自在天神と贈官を受け「嬉しや生きての恨み、死しての喜び、これまでなりや」と虚空に上がり神となります。

 「雷電」では恨み、怒りよりも、もっと強い「恩」というものを感じております。これは時、場所によらず、忘れずにいるべき事であると思います。

上田拓司