「蝉丸」
能をご存じない方に蝉丸と尋ねると、小倉百人一首の「これやこのゆくもかえるもわかれては しるもしらぬもおおさかのせき」を思い浮かべられるのではないでしょうか。
能「蝉丸」の蝉丸は、その逢坂山に捨てられる所から始まります。蝉丸を山に捨てる命を受けた清貫が、蝉丸の父帝の事を「国を治め民を憐む御事なるに、かようの叡慮は何と申したる御事やらん。かかる思いも寄らぬ事は候わじ」と歎くのに、「…父帝も、山野に捨てさせ給う事、御情なきには似たれども、この世にて過去の業障を果し、後の世を済けんとの御謀。これこそ眞の親の慈悲よ。あら歎くまじの勅諚やな」と答えます。目が見えないのは、前世での戒行が拙かったからなので、今生で過去の業障を果し、来世を良くする為にとの、父帝の思し召しこそ、眞の親の心である。だから歎く事はない、と蝉丸は思う…というより、思いたいのでしょう。「あら歎くまじの勅諚やな」の言葉に、「崩シ」という音を使います。これは「思い」と「言葉」が違う時、「心中」と「外面」が一致しない時に使われる声です。数百年前に能「蝉丸」を創作した時から現代まで同じ思いで謡われてきた事と思います。この言葉を聞いた清貫は、返事もなしに「宣旨にて候程に、御髪を下し奉り候」としか言えません。
能「蝉丸」には関係ありませんが、藤原清貫は、菅原道真の大宰府左遷にも関わった人で、内裏の清涼殿に落雷があった時に亡くなった人で、道真の怨霊に殺されたと言われた人々の一人です。蝉丸の件といい、道真の件といい、どのような気持で任務につくのでしょうか。蝉丸は、「髪を下す」「蓑」「笠」「杖」、初めて手にする物ばかりで、さぞ途方に暮れた事でしょう。
今回のチラシの表紙には、逆髪が私で蝉丸を兄貴弘で勤めた時の写真を使用しております。私が兄に「弟の宮か」兄が弟の私に「姉宮かと」と言っている場面です。今回の「蝉丸」も年下の浦田保親さんとどちらの役をしようかと相談した時に、私が杉市和師が笛を吹いてくれるなら小書「琵琶之会釈」の演出で蝉丸をする。そうでなければ私が逆髪をすると言ったところ、杉師が受けてくれたので、年上の私が弟の蝉丸で、年下の浦田保親さんが姉の逆髪をさせて頂く事になりました。逢坂山の藁屋で琵琶を弾くのを、常は「世の中はとにもかくにもありぬべし 宮も藁屋も果てしなければ」と謡うだけですが、「琵琶之会釈」では笛が会釈笛を吹いてくれます。この演奏で、逆髪に「撥音気高き琵琶の音聞ゆ…世に懐かしき心地して…密かに立ち寄り聞き居たり」と言わせる様にしたい所です。外の物音を聞いた蝉丸は「…この程折々訪われつる、博雅の三位にてましますか」と、姉弟が再会出来るとは夢にも思っておりません。共に感激した事でしょう。
しかし、これから先、姉弟が共に生きていく事は出来ません。博雅の三位は琵琶の名手として名を残した人ですが、蝉丸に琵琶を習ったと言う伝説もあります。蝉丸の世話はしても、逆髪の世話をしてくれるか疑問です。逆髪が「暇申して…」と立ち去ろうとすると、蝉丸は「留るを思いやりたまえ」、逆髪は「行くは慰む方もあり」と。そして「泣く泣く別れおはします」。この二人はこれから先、如何に過していくのでしょうか。
蝉丸・替之型・琵琶之会釈 シテ(蝉丸) 上田 拓司
「姿も心も荒天狗を。師匠や坊主とご賞翫は」
今年は上田が能楽の家として認められて100年目です。そんな年に能のシテを勤めることになり、私でいいのだろうか、と思いつつ、いつもの如く「やるしかない」と自分に言い聞かせていたのが一月の事。そしてコロナ禍により、どんどん舞台が無くなり、緊急事態宣言が出たのが四月から六月。今となっては随分昔のように思います。今日のお能も、また随分昔のお話です。
『今から一千年ほど前、平安末期の春の頃。都より北に位置する鞍馬山の奥、僧正ヶ谷に住む山伏は、鞍馬寺の面々で催される花見に参加しようとするが、山伏が座った途端、皆帰ってしまう。独り寂しく桜の下に佇んでいると、一人の少年が「共に桜を見よう」と声を掛けてくる。少年の名は牛若丸、寺の稚児として与えられた名を遮那王と言い、後に平家を討ち滅ぼす源義経となる。牛若もまた、平家栄華の世では住みづらく、周りに邪険にされていたようで、山伏と牛若はあっという間に打ち解ける。牛若が平家の為に仲間外れにされていることを哀れみ、山伏はあちらこちらの桜の名所を案内していく。自分をこうも慰めてくれる山伏に牛若は名を尋ねると、「自分はこの山の大天狗だ、あなたを平家打倒の為に鍛えて進ぜよう」と言って飛び去る。それから毎夜、牛若は僧正ヶ谷へ出かけ、天狗に兵法(戦い方)の手ほどきを受ける日々を送り、武芸の才を開化させていく。遂に子分の木の葉天狗達が牛若との稽古を嫌がって逃げ出すほどに強くなった、ある日の夜、いつもの如く牛若が戦装束に身を包んで僧正ヶ谷で待っていると、大天狗が真の姿で現れる。木の葉天狗相手の稽古は如何だった、と尋ねる天狗に牛若は「彼らに手傷を負わせては師匠に怒られると思い、手を出さなかった」と答える。この返事を天狗は大層気に入り、漢建国の祖、劉邦に仕えた張良という軍師の故事を語り聞かせる。張良が自分の師、黄石公を大事にして兵法を習い、強大な敵に打ち勝ったように、牛若もまた自分を大事にしてくれるのだから、必ず平家との合戦に勝たせてやろう、と豪語する天狗。やがて、別れの時、引き留める牛若に、いつでも「影身を離れず」あなたを守るから、と約束して鞍馬の闇に消え去っていく。』
昔の人の心を今に映し出すのが能の舞台です。能を演じるにつけ、昔も今も人の心は変わらないものだとつくづくと思わされます。
現在の鞍馬山では、魔王尊として祀られている天狗ですが、原則的には仏敵であり、人々からは疎外される存在です。始めは「よそながら梢を」眺めるだけ、と言っているのに花見に乱入してしまう辺り、偉そうな顔をしてますが寂しがり屋なのでしょう。牛若に構ってもらえて、さぞ嬉しかったに違いありません。そんな牛若に、天狗が「愛おしの人」と呼びかける場面があります。牛若が自分を「師匠」と仰いだ為です。天狗とは、元は中国で流星から想像された生き物で、日本においては自然崇拝の修験道と結びつき山伏の恰好をします。しかし、その天狗が日本文化にて大きく発展した要因は仏教腐敗への批判であり、高僧が死後、その驕慢さ故に天狗に生まれ変わるとされました。元は仏の道を志し、人を教え導く仏を目指したのに、今は天狗として人に蔑まれる。人に教えたい、伝えたいのに、誰も傍にいない。この鞍馬の天狗もそういった僧の生まれ変わりかもしれません。
緊急事態宣言明け、瓦照苑にいらして下さった方々のお稽古の初回、皆様に久方ぶりに「先生」と呼んで戴いた瞬間、能楽師の「師」という字を強く感じました。「師」とは一人では成り立ちません。自分をそう呼んでくれる人があって初めて「師」となるのです。天狗が師匠と呼ばれてどれほど嬉しかったのか、今なら少しわかる気が致します。
鞍馬天狗 シテ 上田顕崇