能をする者にとって、「ソトバ」は特別な曲です。「卒都婆小町」は親しみをこめて「ソトバ」と呼びます。「百歳に一歳足らぬ九十九髪」(ももとせにひととせたらぬつくもがみ)と謡いますが、九十九歳の老女になりますので、「卒都婆小町」の類いの数曲を「老女物」と呼び、重い習いの曲としております。
十代の終り頃、父が稽古する横におり、又三十歳の頃に稽古を受け、自分でも出来るなどと思い、是非とも早い機会に、若い体力がある内にやってみたいと考えておりました。「ソトバ」は重い習いの曲なので、その頃には演能の御許しなど夢のまた夢です。若い体力のある頃は技術がわかり、言葉の表面の意味を考えて、「ソトバ」がわかったように思うのです。巧くしたもので、その頃には「ソトバ」の演能の御許しは出ないのです。
普通、年を重ねた女性の装束は、色無(イロナシ)の装いとなります。色とは紅の事で、落ち着いた深い色合いになっていきます。当然の事に、老女物は赤い色は使う筈がないのですが、実は目立たない所に赤い色を使ってもよい心得になっています。「艶を忘れぬように」という「教え」になっているのですが、根本には「艶」即ち「人間の捨てきれぬ心」、これが残り、しかし枯れた態である。表面は、このような事かと思いますが、これはなかなか、特に若く活気に溢れている頃には、本当にわかるものではない様に思います。
老女物の最初が、この「卒都婆小町」です。これ以降は、月のもとで恨みもなく、浄土を垣間見るような心地になる「姨捨」、本当に無邪気に人の中にいる「関寺小町」、これらの能をも将来にはやってみようと思う日が来てほしいと思います。また、折角「ソトバ」をさせて頂きますので、幾度かさせて頂き、十年後、二十年後に「これまで、何もわかっていなかったから再度しよう」と思えるための初演になりたいと思っております。
平成21年11月7日 照の会 「卒都婆小町」にむけて 上田拓司
あらすじ
小野小町は百歳近い老女となり、昔に比べて今の自分の老衰を思い、都の人目を恥じ、都を出ます。疲れて朽木に腰をかけて休んでいます。それは卒塔婆が朽ちたものでした。通りかかった高野山の僧は、教え諭して退かせようとします。
老女は僧と問答をし、ついには、もともと本来無一物であり仏も衆生も隔てないと、反対に僧に諭します。僧は「誠に悟れる非人」と頭を地につけて三度礼拝します。
老女は小野小町と名のり、昔にひきかえた有様を恥じます。今日の命もわからないのに明日の飢えを助けようと粟豆の乾飯を袋に入れ首にかけ、垢や脂の衣の袋を後に負い、白黒の慈姑の籠を肘にかけ、破れた蓑、破れた笠、袂も袖も朽ち、路頭に迷い、人に物を乞う。その有様を語るうちに、狂乱の心になり、僧に対し声を上げます「なう、物賜べなう、お僧なう」物を下さい、と。驚いた僧が「何事ぞ。」と尋ねると、小町は「小町が許ヘ通はうよなう」小町の所へ行く、と。
僧が尋ねると、小町に心をかけた人の中でも殊に思いの深い、深草の四位の少将が憑いたと答えます。ありし日の、深草の少将の小町の許への百夜通いの有様を語り、あと一夜で死んだ少将の怨念が憑き添いて、小町は狂乱します。
それにしても後の世を願う事は真であり、小善を積み、仏身となるように、花を仏に手向け、悟りの道に入りましょう。
(上田拓司)
平成7年5月9日
仕舞「猩々」にて初舞台。
初舞台を前に、これから先の長い能楽の加護してもらおうと長田神社にお参りした時の写真
平成7年1月15日
「面掛」について
私ども、能楽師と呼ばれる者には、生涯の中に、これが「区切り」と感じる事が、何度かあります。特に大きな「区切り」の一つが「面掛(めんかけ)」です。
私共の三男、顕崇の事を思い起こしますと、まず「誕生」。二歳で「初舞台」、八歳で「初シテ」。そして今年、十六歳で「面掛」。
能は分業制になっており、上田の家は「シテ方」で「シテ」「ツレ」「地謡」「後見」を担当します。中でも「シテ」は能の主役であり、祖父の書付には「太夫」とも書かれており、座長がする役でありました。その「シテ」を初めて勤めるのが「初シテ」です。ただ「子方」の時代ですから、能面は使いません。そして今回初めて、能面を掛けます。これが「面掛」です。
それ以外にも、四、五歳の頃でしたか、初めて長時間座る「百万」の子方で、申合(リハーサル)が終わった後、ワキの福王和幸さんから「子方が泣声で『イタイヨー、イタイヨー』と言ってたよ」と言われ、「舞台で絶対泣いたらダメ。しゃべってもダメ」ときつく言い聞かせたところ、本番で客席に母親を見つけ、「泣いたろか」というような顔をし、母親に無視され、ため息をついていたのに、終わって幕に入ったとたん「僕泣かなかったよ」と大きな顔で言った事や、「花筐」の子方の時、舞台で眠ってしまい、シテの観世宗家から、親を含め、周りの大人達が叱られた事など思い出します。外にも舞台で泣いたり、眠ったり、親は心配したり、困ったりすることが何度もありました。
又、子方当時は、年齢に比べ、身体がずいぶん小さかったので、又、なかなか透明感のある声が出ておりましたので、「隅田川」の子方も11歳頃まで、よくさせて頂いており、「作り物の中でヒマだったから、謡を聞いていると、かわいそうで、自分が謡う時に涙が出そうになる」と言っていました。又、「仲光」の「幸寿」の役を三回させて頂きましたが、「アホの為に死ぬ役はイヤだ」と言ってみたり、他の子方とは違う事を言う子でした。
又、舞台以外でも、幼少の頃から、海水浴に行って沖で行方不明になったり、スキーに行って山で行方不明になったり、流氷を見に行って氷の海に落ちたり…。大人の姿を見ることが出来、神仏、先祖の御霊に、心より感謝しております。
これまでいろいろな事がありましたが、お力添えを頂きました方々に感謝致しております。今後もいろいろな事があると思いますが、この「面掛」にて、大人の中に交じり「シテ方」として出発させて頂きます事を、親として喜んでおります。
長男宜照、次男彰敏、長女絢音には、それぞれ祝いの「高砂」「賀茂」「合浦」、そして顕崇本人には、めでたい「岩船」を、舞わせます。
平成21年11月7日 第15回「照の会」 (文、上田拓司)