
「鉢木」は、身内一族に横領されて、逼塞して過ごしている佐野源左衛門常世の夫婦の家に、雪で難儀し泊めてもらった鎌倉幕府の執権、最明寺北條時頼が、後日、鎌倉へ馳せ参じた常世に、横領されていた土地を返し、加えて、寒い夜に秘蔵の梅、桜、松の鉢木を切って火に焚いてくれた返報に加賀の梅田、越中の桜井、上野の松井田を与えたとの話です。
佐野源左衛門常世は、相手が最明寺時頼とは知らずに、「只今にてもあれ鎌倉に御大事あらば…一番に馳せ参じ」と鎌倉武士の気概を語ります。よく言われる「御恩と奉公」です。
私と「鉢木」の出会いは、高校での日本史の授業でした。教壇で先生が「いざ鎌倉」と熱っぽく語ってくださり、初めて「鉢木」の話を知りました。「鉢木」には子方が出ませんし、又、既に稽古を受けていた太鼓も入らない曲なので、私にとって、「鉢木」は知らなかった話です。その二、三年後、大鼓と小鼓の稽古で「薪之段」を習い、能「鉢木」に初めて触れたものです。
私の「鉢木」初演の時、徳島大学の図書館から、昔「修身」の授業で使用していた教科書の中の「鉢木」の部分のコピーを、御稽古に来られていた内藤様が取り寄せて下さいました。その内容も文章も能「鉢木」ほとんどそのままで、小学生がこれを読んでいたのかと驚いたものです。このように「鉢木」は長い年月、美談として伝えられてきた話です。
替装束では、後場の装束が変わります。あまりにも見苦しい姿で鎌倉へ赴く事はさけ、可能な限り着飾っている装束です。常世にとっては精一杯の姿です。それでも、東八箇国の大名小名の中では見苦しい姿なのです。
能「葵上」の最初の地謡「げにや世の中の、情けは人の為ならず」という言葉を改めて思わされます。
鉢木 シテ 上田 拓司

「あら珍しや いかに義経。思いもよらぬ浦波の」
(謡曲「船弁慶」より)
何かあったら部下任せ、逃避行に彼女を連れてくる、泣いている彼女に酒宴の舞を舞わせる……この能に登場する義経は中々にダメ男です。その点、家来の弁慶は頑張ります。船を用意する、静御前を追い返す、全ての段取りを取り仕切り、一行を率いているのは弁慶と言っても過言ではありません。しかし、後半、船の上で嵐に遭い、怨霊が見え始めた時、弁慶は驚き騒ぐも、義経は平然と刀に手を掛け、亡霊を見据えるのです。
本日は小書「前後之替」、つまり普通の船弁慶とは違う演出となります。前半、静御前は舞の最中、義経を見て思わず物陰に隠れ泣いてしまいます。それを舞台上の誰も気づきません。静御前の気持ちに誰も寄り添わない、そんな風に見える場面です。
後半の知盛の亡霊は、登場から退場まで演劇的な演出になります。舞台上にはっきり姿を出さずに義経に声を掛けたり、緩急が激しくなったり、長刀を振るい足を蹴り上げることで荒れ狂う波と嵐を起こして義経の船を沈めに掛かります。
それに対して、義経は刀で対抗しますが、普通に考えれば、幽霊に物理的な刀は通じないでしょう。しかし、知盛の霊は義経の刀を恐れ、攻めきれないのです。これは刀が邪気や魔を祓うという古来からの思想を見ることもできますし、義経という人の気迫に幽霊が気圧されてしまうとも見えます。どちらにしても、前半あれほどダメ人間だった義経が、戦いになると生き生きしだす、それが義経と言う人物の魅力なのでしょう。
義経の戦う姿を見て、弁慶も冷静になります。「打ち物業にて敵うまじ」刀では怨霊に勝てない、と数珠を擦って祈ります。目に見えない不動明王達が索(綱)で怨霊を縛り、幽霊は段々と力を失っていくのです。
最後になりますが、能のシテの意気込みとしては「義経と死ぬまで一緒」という静御前に「義経も一緒に死になさい」という平知盛。両極端の義経に対する「思いの強さ」を表現できれば、と思い、この能を勤めます。どうぞ最後までお楽しみください。
船弁慶 シテ 上田 顕崇