照の会 第23回 大阪公演
平成29年11月4日 大槻能楽堂

御礼 ごあいさつ
芭蕉、土蜘蛛・替間(新演出)によせて  上田拓司


照の会第二十三回大阪公演に御来駕頂き、有難う御座います。

「芭蕉」は、なかなか言葉も、又内容も理解するには難しく、一例をあげると、「されば柳は緑、花は紅と知る事も、ただそのままの色香の草木も、成仏の国土ぞ…」とシテ(地謡)が言い(謡い)、「かくばかり、法の理、白糸の、解くばかりなる心かな。」とワキ(地謡)が言い(謡い)ます。「柳は緑、花は紅」は能には「芭蕉」以外にも「山姥」等、偶に使われる語句です。瓦照苑の舞台には鏡板の老松の絵の代りに「明鏡止水」と書かれた衝立が置いてありますが、文字を決める時に、「柳緑花紅」にしようかとも考えたものです。瓦照苑には二枚衝立があり、春には「柳緑花紅」と同じ蘇東坡の「春宵一刻…」の詩が書かれた衝立を置いております。少し瓦照苑の舞台の宣伝になってしまいましたが、「柳は緑、花は紅」とは「あるがままの自然の姿がやがて実相であると観ずる悟り」であり、「平等の上に立った個性の区別」です。私なりに「皆それぞれです」と思っております。自然界に存在するものは全て平等で、それが仏であるという事です。人間世界には価値観の相違がありますが、仏(万物)の世界にはないのです。シテはこの言葉を話しながら(実際は地謡が謡っていますが)ワキ僧に向き、合掌します。それでワキ僧は、「仏法の理をよくわかっている」と感心するのです。
芭蕉は泡沫と並んで人生無常の喩えに使われます。同じく「無常」を語っていく能「江口」でさえ、衰え、栄枯盛衰を具体的に語りますが、「芭蕉」は、経典の言葉、詩、歌を多く使って、淡々と、景色を眺め、時の流れ、四季の移り変わりを語り、生命存在そのものを考えさせます。「江口」の様に、わざわざ「無常」と言わず、「芭蕉」に触れた人が、自分勝手に「無常」を感じるようになっていると思います。先人達が「芭蕉」は「無」と言ったり、「冷えた能」と言っているのも、思い当たります。
「芭蕉」は、私自身初演で、「しないという事をする能だな」と思わされております。その分舞台上で、存在が強くあるべきと考えております。若い内は強くと言うと、声を強くとか、力を入れて立つなどと考えてしまいますが、そんな事では「芭蕉」という能は扱いきれないように思います。「卒都婆小町」を初演させていただいた時には、初めての「老女物」で、「これまで使った事のない技術を使う能」と思いましたが、「芭蕉」は考え方、又、精神面で私にとりまして、新しい体験のように感じております。「具体的に何々をする」と伝わる事が限定されてしまい、舞台上の「人」にも、客席の「人」にも、それぞれの人に自由に感じられる事が限られてしまうように思います。二時間以上かかる大曲「芭蕉」は、わかりやすい能ではなく、舞台側も客席側も覚悟のいる能ですが、こういう能にも、是非、触れてみて頂きたいと願っております。
能「芭蕉」の最後、「芭蕉は破れて残りけり」で、ワキ僧の夢が破れる(覚める)と、芭蕉の葉も破れてそこに、ポツンと存在し…。「破れて」のところで袖を返します。「破れて」と感じていただけるか否か…。この様な事を、言葉も動きも重ねて重ねて、「芭蕉」は演じられます。
地下鉄谷町四丁目の駅から大槻能楽堂へ行く途中、国立病院大阪医療センターの角に、塀の内から芭蕉の葉が顔を出しています。先日の台風で破れたのか、葉が破れています。歩きながらそれを眺め、数日間、物思いにふけっております。
間狂言を善竹忠亮氏にお願いする時に、強く、そしてしんみりと語って欲しいとお願いしました。忠亮さんも年齢が若く、「芭蕉」の間は初演だとの事でしたが、役を受けて頂き、共に「芭蕉」に向き合って頂いております。
今回の上演にあたり、篠山の能楽資料館所蔵の「曲見」児玉近江作(江戸時代初期)を使用させて頂きます。「芭蕉」をしようと考えた当初は上田家蔵の「深井」古元休作を使うつもりでおりましたが、今年の夏に篠山へ参りました時、児玉近江の「曲見」を見て、古元休の「深井」に似ているが、表情の豊かさ、深さに見入ってしまいました。お借りする事を快諾して下さいました能楽資料館々長中西薫様に感謝申し上げております。
又、後シテに使用する長絹は、吉井家蔵で、当初照の会チラシの写真に写っている上田家蔵の長絹を使用するつもりでおりましたが、吉井家に芭蕉の長絹があると聞き、お借りさせて頂きました。上田家の長絹とは違い、金糸、銀糸も使用せず、地模様で芭蕉葉が織り込まれ、よく見なければわからない装束で、「芭蕉」にぴったり、又「芭蕉」にしか使えない装束と思いました。吉井家先々代の吉井司郎先生が「芭蕉」の為に作られたが、「芭蕉」をやらないで死去され、先代吉井順一先生が一度だけ「芭蕉」をされた時に使ったきりで、当代吉井基晴氏も未だ「芭蕉」をしていないので、今回が二回目の使用だそうです。お貸し頂きました吉井基晴氏にも御礼申し上げます。

「土蜘蛛」は鬼が出て来て戦い、動きも多く、「芭蕉」の「靜」とは対照的に「動」の曲です。謡のお稽古をされる方は、初心の頃にお稽古をされる曲で、よく上演もされる能です。
今回、善竹隆司氏の新作の間狂言でさせて頂きますが、ご存知のように能楽に新作は珍しく、滅多にございません。今回、シテ方観世流宗家、狂言方大蔵流宗家にお許しを頂き、上演させて頂きます。
「土蜘蛛」「紅葉狩」等、鬼が登場し退治される能は、征服した側からの視点で作られております。「大江山」は、ほんの少し鬼側の思いを述べる言葉が入っておりますが、能の創世記、能のパトロン達は皆、征服した側の子孫の前で上演するので、当然、現政権に対する悪は、退治されるべきものであったと、容易に想像出来ます。
「土蜘蛛」の鬼は、古事記、日本書紀の「神武の東征」により、征服された土蜘蛛族の生き残りかな、と私はとらえております。そう思えば、征服された後、不満を抱き続けて政権の転覆、又は混乱を望んだ人々を鬼と表現し、退治したと言う話にしてあるのかなと考えられます。今回の新作の間狂言は、土蜘蛛側からの視点を考慮して、征服された側の思いを、あまりしつこくなく入れようと、善竹隆司氏と相談し、胡蝶も土蜘蛛側である事も少しほのめかそうと作られております。「土蜘蛛草子」には、これが胡蝶かなと思われる「者」が登場します。能の胡蝶とは全く似ても似つかない化け物ですが、神楽では、胡蝶が薬と称し、頼光に毒を運んでいる事になっているようです。考えてみれば蜘蛛も蝶も「虫」の仲間でしょうから、さもありなんと思います。そう考えれば、現行の「土蜘蛛」の胡蝶が常座(舞台入口)から「御心地は何と御入り候ぞ」、少し後、土蜘蛛が一ノ松(同方向少し後)から「御心地は何と御座候ぞ」と頼光に言葉をかけるのも、意味ありげに感じられまし、「色を尽して…」の言葉も、意味をそのまま取れると思います。又、狂言なので、面白く作ろうという事で、敵が攻めてくるので、巣を投げる練習をしようとしますが、なかなか上手く行かないというところも楽しんで頂きたいと思います。
この新作間狂言が、今後何百年と上演されるようにと、願っております。