「覚むると思えば泉はそのまま。尽きせぬ宿こそ。めでたけれ」(謡曲『猩々』より)

 妹に怒られました。曰く、お兄ちゃん(私)は何にでもなれたのに能楽師なんかになってしまって、友達に自慢もできない、だそうです。返事に困って苦笑している私が居ます。然し、後悔しているわけではないのです。

 

昔、中国に親孝行な高風という若者が居りました。彼は不思議な夢の告げのままに市に出て酒を売り、年月を経る内に富貴の身となっていました。その高風の店に、また不思議な常連客が居りました。盃の数は重なれども面色は更に変わらぬその客に、ある日高風が名を尋ねると海中に住む猩々と答えます。自分を裕福にしてくれた夢の告げの主と悟った高風は、お礼のつもりなのでしょう、夜もすがら酒を用意して潯陽の江のほとりで猩々を待ちます。やがて猩々が海を渡って現れ、月星澄む酒宴の中、舞を舞い、高風から振る舞われた酒の壺を、酒の湧き出る泉の壺にして返し与えます。遂に二人とも酔いが回り、高風がふっと気づいて夢かと思えば泉の壺が側にある、その後この家は途絶えることがなかった、という終わり方をします。

 能「乱(みだれ)」、「猩々乱」とは能「猩々」の小書(特殊演出)のことです。詞章として省く所があるわけでなく、追加されるわけでもありません。目に見えて変わるのは謡から囃子に引き継がれた舞の部分が、乱の型になることです。菊の水である酒に戯れ、江の波の上にて水を弄ぶ様を「乱」と名付けたのでしょう。

 

 十七、八の頃、あることがきっかけで能を捨てようとしたことがありました。どうせ働くならば、やりがいのある職に就きたい、社会に貢献したい、警察官になろうと思い立ちました。父に相談し、色々な言葉が帰って来たのですが、その中で今も考えさせられるのが「能も社会に貢献する職業だ」と言われたことです。父も若い頃ずっと能の社会における意義を考えていたといいます。父曰く、能は見た人が元気になれる、明日から頑張って生きていこう、そう思わすことのできる仕事とのことです。前半を略し祝言のものとした猩々など、まさにその類の能なのでしょう。ですが、正直に申しまして、今の私の能に人を奮い立たせる力があるとは思えません。なにより、そもそも能が本当に社会を支えることのできるものなのか、その根拠を見つけられないままでいます。ただ思うのは、父が本当に能の社会的意義を見つけ、そして見据えているのなら、その夢に沿うてみたいのです。やがて夢が覚めても何かが残ることを信じて成してみたい、こういう下らぬことを思う青二才に過ぎません。それでも、私の力不足を支えてくださる諸先輩方の力を借りて、よい能をつとめられるように能楽師20年目の舞台に臨みたく存じます。

平成27年度照の会 能「乱」によせて    上田顕崇

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