能「小袖曽我」
平成24年9月21日 
越木岩神社 西宮薪能

十郎:上田宜照 
五郎:上田彰敏 
母:上田拓司

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弟を連れ、母の許しを乞う十郎

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共に最後の舞を舞う兄弟

喜びのあまり十郎自ら酌をして回る

能「夜討曽我」
平成24年11月10日
第18回照の会 

十郎:上田宜照 
五郎:上田彰敏  
古屋五郎:上田拓司 
御所五郎丸:上田顕崇

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富士の巻狩りに向かう兄弟一行

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団三郎に形見の手紙を渡す十郎

団三郎鬼王が見えなくなった後で泣く兄弟

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待ち受ける古屋五郎

敵討ちを果たした兄弟

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五郎は女かどうか確かめる為に脅しにかかる

五郎を押さえる御所五郎丸

「嬉やな年月狙いし親の敵。工藤祐経を討ち取りたれば」
(謡曲「夜討曾我」より)

 今回は、「小袖曽我」「夜討曾我」のシテ曾我兄弟が、親の仇として工藤祐経を討つ原因となった「河津三郎祐泰(祐通)」暗殺について紹介したく思います。

 建久4年(1193)5月 二十八日、癸巳、子の刻に故伊藤次郎祐親法師の孫の曽我十郎祐成・同五郎時致が、富士野の神野の御旅館におしかけ、工藤左衛門尉祐経を殺害した。(中略)その時、祐経・王藤内らの相手をしていた遊女の手越の少将と黄瀬川の亀鶴らが悲鳴をあげ、その上に祐成兄弟が父の敵を討ったと大声で呼ばわった。このため人々は大騒動になった。詳しい事情分からないままに、宿侍の者たちがみな走り出してきた。雷雨が鼓を撃つかのようであり、闇夜に灯りを失って、殆ど東西さえ分からないほどだったので、祐成らによって多くのものが疵をこうむった。
(五味文彦・本郷和人編「現代語訳 吾妻鏡6」第一版 吉川弘文館 2009 P.17、18)

 さて、突然の引用失礼致しました。上にもあります通り、「夜討曾我」の出来事は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に史実として載っています。能における曾我物の典拠となったのは鎌倉から室町時代にかけて成立していった「曾我物語」でありますが、元を正せば史実である曾我兄弟による富士の御狩の襲撃を源とも考えられます。本稿ではそれを更に遡って、そもそもの始まりである曾我兄弟の父「河津三郎祐泰(祐通とも)」が殺害されたその経緯について、「吾妻鏡」を覗いてみます。
 この件は兄弟の討ち入りの翌日の項に記されています。曰く、祐泰は兄弟がそれぞれ5歳と3歳のとき、伊豆の奥の狩場にて思いがけず矢に当たって絶命したが実は工藤祐経の仕業によるものであった、と。では何故、祐経は祐泰を殺してしまったのでしょうか。これは「曾我物語」第一巻において述べられています。順を追って説明していきましょう。
 事の起こりは伊豆国(静岡県の伊豆半島を主とする一帯)の楠美荘の領主にして、兄弟の曽祖父「楠美入道寂心(俗名:工藤祐隆)」が息子に皆、先立たれたことにあります。彼は後妻の連れ子に密かに産ませた子を嫡子に立て、主な領地である伊東荘を譲り「伊東武者祐継」と名乗らせましたが、亡くなった息子にも男の子が居た為、次男として河津荘を譲り「河津次郎祐親」と名乗らせました。
 ところが、伊東祐継の出生の秘密を知らない河津祐親はこの処置を不満に思いました。祐継の死後、一旦は彼の遺言に従い祐継の嫡男の面倒を見、元服させて自分の娘と結婚させるも、祐継の嫡男が都へ上ると所領を横領するのです。これに対し祐継の嫡男は訴訟を起こしたのですが、祐親の賄賂によりことごとく退けられます。更に祐親は、彼から嫁がせた娘を取り上げ別の男と結婚させてしまいます。この理不尽な境遇に追い込まれた祐継の嫡男こそ、兄弟の仇敵となる工藤祐経なのです。本来は自分のものである所領をのっとられ妻を奪われた彼が、祐親と嫡男の祐泰暗殺を企て所領を取り戻そうと思うのは当然の成り行きではないかと思わざるを得ません。もっとも曾我物語はこれを「第一には叔父なり。第二には養父。第三には舅(しゅうと)。第四には元服親なり。」として祐経は祐親に対する重恩があると述べ、祐経の悲惨な最期を示唆します。なかなか道理というのは難しいものです。
 しかし祐経は暗殺を部下に実行させます。放たれた刺客の矢は祐泰の命と祐親の左指2本を奪います。悪運強さに仕留め損ねた祐親も、後に源頼朝に敵対したことが仇となって自害し、その息子も平家方に与して討死します。やがて工藤祐経は頼朝の側近として重く扱われるようになり、伊東荘は祐経のものとなるのです。
 こうして祐経は祐親一族に復讐を果たして所領を取り戻し、輝かしい出世を遂げたわけです。しかしながら、祐親一族の没落と祐経の繁栄は、祐泰の子供の中に復讐の火を育てていき、その火に祐経が焼かれることとなるとは因果か常なき世のさだめか、人性の虚無を感じずにはいられません。

 平成24年2月9日 瓦照苑 上田顕崇

「今とても。狩場とあらばなどしも。御心にも掛けざると。
怨み顔にも兄弟は泣く泣く立って出でければ」
(謡曲「小袖曾我」)

 今回は、曾我兄弟とその母親がどのように思いを違えてゆくか、を紹介したく思います。

狩場での伊東親子への襲撃後、河津三郎の妻(兄弟の母)は夫の遺体を前に嘆き悲しみます。彼がいまわの際に工藤祐経の部下の姿を見た、と言ったことから、妻(母)は幼き日の曾我兄弟、五歳の「一万(いちまん)」と三歳の「箱王(はこおう)」に「二十歳にならざるその前に、祐経が首をとって我に見せよ」と言います。その悲しみは身ごもっていた河津三郎との最後の子を出産してすぐに間引かせようとする程です。ところで、私も三男ですが間引かれるくらいなら誰かに預けてもらって、後は勝手に浮世の夢から覚めてしまえと思わざるをえません。少しきついことを述べてしまったでしょうか。やはり、どんな親でも長生きしてもらいたいとしておきましょう。

さて、母は夫の百ヶ日に尼となる決意すらしますが、舅である伊東祐親の計らいで祐親の甥である曾我太郎祐信と再婚することとなり、幼い二人の兄弟と共に曾我祐信の家に入ります(兄弟が曾我の姓なのはこの為です)。これが段々と母と子の心を違えてゆく契機になるのです

兄弟の母が曾我祐信との新生活に心を落ち着かせていく一方で、九歳の一万は物心ついてから父が死んだ為、継父である曾我祐信に馴染めず、七歳の箱王も物心つくにつれ、父の敵が祐経であることを兄づてに知っていきます。また、伊東家が没落し、曾我の家が裕福でなかったことから馬や狩道具を与えてもらえません。よその家の自分たちより幼い子が狩に行くのを尻目にますます祐経への怨みは募っていきます。
 ある時、兄弟は敵討ちの為に子供だましの小弓矢で障子を射抜いて敵討ちの稽古をします。これを聞きつけた母は大いに驚いて兄弟を呼びつけ、敵討ちの心を持つことを強く戒めます。兄弟の立場は世間において謀反人の孫です。それ故に、祐経に謀殺され易く継父への恩をも仇にしてしまう、と必死に子供に言い聞かせます。それでも、兄弟が人目のないところで敵討ちの相談を続けるので母も繰り返し叱りますが、兄弟も段々と人目のつかないところへ場所を移しながら相談を止めません。やがて母は兄弟を離れさせる為、弟の箱王を寺にやることを決意するのです。
 母にとって、やっと過去の事にできた人が子供の中に強く居座り続けているのは心底恐ろしかったでしょうが、これこそ幼い子供に自分の心を強く押し付けた母親の罪科に他なりません。子供の精神は親に強く影響されます。いつか自分が子を持ったときにそのことを忘れず居たいものです。

平成24年7月8日 上田顕崇

「箱根の寺に在りし箱王と云ひし えせ者か。
それならば母が出家になれと申しゝを聞かざりし程に勘当せしに」
(謡曲「小袖曾我」)

今回は、箱王が母の意に背き勘当されるまでのいきさつを述べたく思います。

さて、いくら敵討ちをやめるように言っても動かない兄弟の心に恐ろしくなった母は兄弟を離れさせる為、箱王を出家させることを決意します。父の供養と母の来世の為に僧になるよう諭された箱王は、母に頼られたことに喜んだのでしょう、感涙して箱根寺へ行き仏道修行に励み、その勤勉さと純真さ故に可愛がられます。
 ところが、年の暮れに他の子たちが父母等からの手紙をたくさん貰う中で、自分だけ母の手紙しか来ません。それが亡父への思いを募らせ、鎮まっていた祐経への怨みが鎌首を持ち上げます。今までは毎日毎夜、父母の安世の為に読経していたのが、一転して怨敵降伏の祈りを捧げるようになります。その祈りが届いたのか、源頼朝が箱根権現を訪れた際に、遂に仇の工藤祐経の姿を見つけます。命を狙おうと機会を覗っていた箱王を見つけた祐経は立場の違いを見せ付け、箱王はそれに何もすることができません。思いを遂げられなかったことを悔やみに悔やんだ箱王は、明日が出家という時に寺を抜け出し、兄 十郎祐成のところに行くのです。祐成は箱王が自分の下に帰ってきてくれたことに喜び、北条時政の下で箱王は元服し「曾我五郎時致」となります。
 一方、箱王がいなくなったという知らせが母の元にも届き、大騒ぎです。そこへ「箱王が来た」という家の者の声を聞いて、母は喜び出家した箱王の為に誰にも使わせないでおいた莚(むしろ:わら等で編んだ敷物)を用意し、そして現れたのは元服した姿の五郎だったのです。怒った兄弟の母は、見るなり障子を閉めて散々に叱り恨み言を言い、五郎を勘当してしまいます。心のどこかで自分の行動を認めてくれると期待していたのでしょうか、叱られた五郎は傷いたあまり十郎に今からでも出家したいと泣きつきます。それをなだめ慰め、思いとどまらせる十郎は果たして素晴らしい兄なのか、弟を巻き込み利用しているのか、ともかくも五郎にとっての十郎は大変に頼りがいのある兄なのでしょう。
 さて、そんなことがあっても兄弟は仇討ちを諦めず、ついに源頼朝が催す富士山の裾野の狩場にて遂に祐経を討つことを企てます。征夷大将軍の主催する狩場で側近の祐経を殺せば、生きて帰ってくるなど、まず無理です。そこで兄弟は心残りである五郎時致の勘当を許してもらう為、今一度母に会い行くのです。
 謡曲「小袖曾我」はこの母に会いに行くところから始まります。親の意に背き元服した時致に待っているのは安穏には程遠い行く末です。ある意味、五郎を一番想っていたのは母なのかも知れません。

平成24年9月21日 上田顕崇

「舞のかざしのその暇に。兄弟目を引き。 これや限りの親子の契りと」(謡曲「小袖曾我」)

 兄弟は弟の五郎時致の勘当を許してもらう為、母の元へ行く。十郎祐成が顔を見せに行くと喜んでもてなし、五郎時致が行くと家の者すら迎えに出ない。今一度大声で時致が来たと呼ばわれば、時致などという息子は居ないと答える声がする。せめて今一目と走り寄るも御簾を下ろされ顔すら見られず顔すら見ず、その場にて泣き崩れる時致。様子分からぬ祐成が良い頃合だろうと思って手招きすると、目頭を押さえた時致が来る。更に母は祐成が時致のことをとりなそうとするなら祐成共に勘当すると告げさせる。意を決した祐成は嫌がる時致を無理やり連れて母の前に行き、母へ思いのたけを必死に述べるが、母は見向きもしない。敵有る身で祐成が一人なこと、時致が必要なこと、出家したところで周りから敵から逃れる為だと後ろ指を指されること、時致が父母の為に箱根寺で一生懸命修行を積んだこと、今から狩場に向かうのに、父「河津三郎」も狩場で殺されたのに母は兄弟の身を気にも留めないのか、と遂に十郎は五郎を連れて家から泣く泣く出て行こうとする。思わず母は立ち上がり涙ながらに呼び止め、時致の勘当を許す。祐成は喜び自ら酌をしてまわり、二人で舞を舞い母に別れを告げる。
 よく、十郎は敵討ちの旨を兄弟の母にはっきり告げている、母もそれをわかって許したのだという解釈をする人がいます。しかし、典拠(原作)である「曾我物語」では、母は全く敵討ちのことを知りません。全ては兄弟の胸のうちです。このことにおいて、能「小袖曽我」が「曾我物語」に準じていることは、キリ(終わりの謡)「舞のかざしのその暇に兄弟目を引きこれや限りの親子の契りと思えば」からわかります。母親に敵討ちを宣言しているなら、舞の合間に兄弟で目合わせをして母親との最後になる等と思う必要がないのです。
 これを前述のように解釈してしまうのは、小袖曽我の十郎祐成の詞がはっきりとではないですが、敵討ちのことを告げているように思わせるものだからでしょう。ここに祐成の母に全てを打ち明けたくとも打ち明けられない葛藤が見え隠れすると捉えるべきです。では、その葛藤を母が見抜いたかどうか、これは母(ツレ)を謡う者次第です。上の解釈の人が見た能は、きっと慈悲深い母の謡を聞いたのでしょう。いつかそういう謡を謡えるようになりたいものです。

平成24年9月21日 上田顕崇

「さらばよ急げ 急げ使。涙を文に巻き込めて」(謡曲「夜討曽我」)

 能「夜討曽我」は、能「小袖曽我」にて曾我兄弟が母に別れを告げた後、富士の御狩へ向かう所から始まります。

実父の仇にして今や源頼朝の側近である「工藤祐経」への復讐を企てる兄弟は富士の裾野へ着きます。征夷大将軍の催す富士の御狩での暗殺は命を捨てるに同じことです。敵討ちを今夜に定めた兄弟は、母に形見を送る為、供について来ていた従者の「鬼王」「団三郎」兄弟に形見を持って母の元へ届けるよう命じます。曾我兄弟に最期まで忠を尽くしたい二人は帰ることを拒みますが、兄の命を受けた五郎時致に強く迫られ首を縦に振らざるを得ません。従者としての本意と十郎祐成の御意に進退窮まった二人は、元々死ぬ気で付いて来て今更帰るのは漢が許せないのでしょう、その場にて刺し違えようとします。これに慌てた五郎は二人を止め、十郎は無理強いして帰すのをやめるので話を聞くようにと二人を落ち着かせます。十郎の、全員死なば敵討ちのことを知らない母に兄弟の死を誰が伝えられるのか、君臣の礼に背くならば永き世に渡り勘当する、という言葉に二人は涙ながらに折れ、形見を受け取ります。やがて入合の鐘(夕暮れ時の鐘)が鳴り、曾我の郷へ出立する二人が見えなくなる頃、残った兄弟は涙を流すのです。よく死にに行く若人を美談とする物語があります。二十二と二十の人間の今から死へ向かうことが全て美しさで構成されているのか、是非その眼で見てほしく思います。
 さて、遂に兄弟は工藤祐経を討ち取ります。能にここの場面は出てきませんが、『仮名本曾我物語』曰く、寝入っていた祐経の肩に十郎が起きろと刃を突き立て、祐経が太刀を取って起き上がろうとするを兄弟で2太刀ずつ斬りつけ、止めを何度も刺したので口と喉が一つになったとあります。今回は小書「十番斬り」なので祐経を討った直後から始まり、曾我兄弟が敵を討ったと呼ばわる大声に御家人達がおっとり刀で現れます。それらを兄弟でことごとく斬り捨て、そのうちの一人が逃げ出すを五郎が追いかけるうちに、二人ははぐれてしまいます。十郎の前には血縁の仁田四郎忠常が立ちはだかり、十郎はこれを死に場所と斬り結びます。一方、五郎に追われた御家人が頼朝の御所へ逃げ込んだことで、五郎は正に将軍の目と鼻の先にたどり着きます。「千万人の侍共を討つより君(頼朝)一人を汚し参らせつつ後代に名をば留め候はむ」という思いを胸に五郎が今、御所へ入らんとするその時、一人の女がたたずんでいるのを見咎めるのです。
 彼らがどうなったかは、お能を御覧になってお確かめ下さい。

最後に一つ、能の詞は成立した段階でもう一般的に難しいとされるものでした。約七百年を経た今、我々にとってどこまでわかるか微妙なところです。しかし、人間が昔から変わっていないのと同じように、昔からわかることもわからないことも同じものです。
 例えば、これはどうでしょう、手跡に勝る形見無しとする十郎祐成の手紙。敵討ちが終わった後はずっと母の側に居ますと贈ってきた五郎時致のお守り。これらを形見だと突然見せられた母の気持ちは如何でしょうか。

平成24年10月15日 上田顕崇