公演チラシ▽
第22回 照の会 大阪公演
上田拓司独演三番能「木曽」「羽衣」「望月」
平成28年11月6日   
於:大槻能楽堂

 

御礼 ごあいさつ     上田拓司
 本日は、第二十二回照の会・上田拓司独演三番能に御来場頂き、有難う御座います。
 私事で御座いますが、私の年齢も来年三月で亡父照也の生涯と同じ長さになります。これまでに父が手掛けた重い習いの曲は、全てさせて頂き、その出来の良し悪しはわかりませんが、ほぼ同じペースでここまでさせて頂けた事は、多くの方々のお導きによるものと、感謝申し上げます。
 今回の照の会は、父がして私がしていない、独演三番能をさせて頂きます。
来年三月からは父の経験しなかった年齢になります。「父はこう言ってました」「父にこう習いました」と言うのは、自分自身にとって大変都合の良い言い方でありましたが、来年三月以後は止めようと考えております。
 本日は、父に教わった事、と言う言い方は最後かもしれませんが…、少し申し上げます。

 「木曽」について「三読物の中で願書は一番気持が良い。」父が私と違う人に稽古中に言っているのを、横で聞いていた言葉です。
 「安宅・勧進帳」「正損・起請文」と「木曽・願書」は三読物と称して重い習物として大事に扱っております。それぞれ複雑なリズムと節に緩急を付け、特別な技量が必要とされます。武蔵坊弁慶が安宅関を通る時に、勧進帳など無いのに、さも存在するように読み上げる「勧進帳」。土佐坊正尊が一つ間違えれば生きて帰る事が出来ない場で、偽りを書き上げて読み上げる「起請文」。どちらも命をかけ緊迫した場面で、敵を納得させるだけの力量が要ります。
 さて「願書」は、平家物語巻七「木曽の願書」からの抜粋で、「南無帰命頂禮八幡大菩薩は」から始まり、八幡大菩薩を敬い、平家の横暴と、これに向かう事の難儀を語り、神の御加護を願うものです。太夫坊覚明が願書を読み上げると、「木曽殿を初めとして、その座にありし兵共、誠に文武の達者かなと、皆覚明をほめにけり。」となります。
 三読物の中で只一つ、心より真を言い、嘘がないのが「願書」です。「勧進帳」「起請文」と違い、その場で即、命が危うい場面ではないので、他の二つより緩急も少なく、緊迫感はありません。しかし、その緊迫感を上回る雄大な力強さで、とうとうと謡い、聞いている人を納得させるのです。能に長年携わり、この雄大な力強さこそ、「能」の基盤であると感じるようになりました。
 父は初舞台五十周年に「木曽・願書」「杜若・恋之舞」「小鍛冶・黒頭」をしており、今回も「木曽」を最初にさせて頂きます。チラシ裏面の「木曽」の写真は、その時の父照也の写真です。当時十八歳であった私が義仲を勤めさせて頂きました。今回は三男顕崇が勤めさせて頂きます。

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 「羽衣」について「天人は人間ではない。」私が二十歳の時、初めて羽衣をする時に、父から稽古中に言われた言葉が「それでは人間だ。」でした。
 天人の舞楽を奏するのを条件に衣を返す事になり、衣が無ければそれも出来ないから先に返せと言う天人に、人間白龍は「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上がり給うべき」と言い、それに対して天人は「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」と答え、白龍は「あら恥ずかしやさらばとて、羽衣を返し与うれば」と羽衣を返します。「疑い」「偽り」は人間界に存在するもので、天上界にそれは存在しない。これを言われ、いわば一言で納得し、天上に対し、人間界そのものを恥じるのです。その天人の奏する舞楽は、人間には及ばない素晴らしい舞楽でなければなりません。天人は天上界におり、人間は交わる事がかなわない存在です。その人間には及ばぬ世界を垣間見るのが「羽衣」であると思います。
 舞が進んでいきますと、「三五夜中の空に又、満願真如の影となり、御願円満国土成就、七宝充満の宝を降らし、国土にこれを施し給う。」三五(十五)夜、満月が、願が満ちるにかかり、真如の月、大勢至菩薩が照り、国土が成就繁栄し、極楽浄土の宝樹になるという七宝が降りくだり、人間界を幸せにしてくれるのです。今回の「彩色之伝」は、装束も白で、冠に極楽浄土の宝池に咲くという白蓮を載せ、特に天上の清らかさを現す演出とされておりますが、清らかさのみならず、「羽衣」その曲が「喜び」を人間界に示すものでもあります。「羽衣」をやっていて、そのように感じます。「彩色之伝」はワキ留と言って、ワキの白龍が天人を見送り、舞台で一曲を留めてくれる事になります。私はシテ方なので、ワキをする事は許されないのでワキ方の思いはわかりませんが、「羽衣」の中で、人間の代表のような白龍は、どのような思いで天人を見送っているのか、聞いてみたいようにも思います。
 「羽衣」には、亡母谷口妙子が生前に、私に作ってくれました装束「縫箔・白地波ニ鯉模様」を使用します。チラシ裏面の「羽衣」の写真は、昭和三十七年、神戸長田の上田能楽堂舞台披き記念会の時の、母妙子の写真です。

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「望月」について「ホコリが立たないように。」これは大槻文蔵先生に教わった言葉です。
能の中で獅子の舞は「石橋」と「望月」の二番にあります。獅子の舞自体を重い習いとし、大事に扱っておりますが、やっている者としては随分に違うものです。「石橋」は本物の獅子が出てきて、辺りを払う勢いで舞う、豪華絢爛の舞です。私も「石橋」は初演が十八歳、まだ高校生の時です。精一杯暴れまわって、ヘトヘトになって終わりという様なものでした。
 
「望月」の初演は三十八歳、子方も我が子を使う年齢です。我が主君の仇の前で、座敷で仇に酒を勧め、眠りを呼ぶような場面で獅子を舞います。同じである筈がないのですが、「石橋」をやって「望月」をやると、同じ型もあり、つい「石橋」のようになってしまうものです。
 最初にシテの小澤刑部友房は「さる子細候いてこの甲屋の亭主となり」と言いますが、その「さる子細」とは、本人には随分辛い事であったであろうと、主君の妻子と再会した時の様子で想像できます。盲御前に扮した主君の北の方は「一萬箱王が親の敵を討ったる所」を謡います。
 夫の仇、望月秋長への嫌がらせですが、平静を装い、のんびりと聞いている望月にはどのように聞える事でしょうか。主君の子、花若の八撥、小澤刑部友房の獅子と、お座敷で芸が進む間に、飲酒の望月は眠りに落ちてしまいます。ホコリが立つような獅子では具合が悪くなってしまいます。少し考えるとすぐにわかる事ですが、舞台では技術面に偏ってしまい、言われなければなかなか気がつかないものです。
 「望月」は父の死後、私が二十七才の時、「望月」のツレを初めてさせて頂きました。シテは大槻文蔵先生でした。望月のツレは、色無(年齢が高く、赤い色を使わない)の装束で、謡も身体の構えも、それまでとは違う技術が必要となります。今回は長男宜照が勤めさせて頂きます。

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 今は、生母英子も、又、家内の両親も、親は皆泉下の人となりました。私も体力を考えても、独演三番能は最初で最後と思います。父のこの世での最期の年令に到る前にさせて頂く三番能を、親たちも見てくれているように感じております。我ながらおこがましいと思い乍も、茂山千三郎氏に狂言「二千石」をお願い致しました。父も今年で三十三回忌でした。父を御存知の方には、思い出して頂ければ有難いことで御座います。
 昨今では一日に能三番は、御覧頂きます方々にも長い時間になりましたが、最後までお付き合い頂ければ幸甚に存じます。