はじとみ

 都紫野雲林院の僧が花の供養をしていると、何処からともなく女性が来て、花を供える。その花は、黄昏時に美しく咲く夕顔の花であり、女性は花の蔭から来た者で、五條辺の夕顔と名のり、再び花の蔭に隠れる。
 僧は、同じく花の供養に来た男に、五條の辺の夕顔の事を尋ね、五條辺へ行くと、昔の住居のままで、夕顔が咲き、草が茂っている様な、物凄い所であった。そこには、先の女性が居り、弔いを願い、半蔀を押し上げて立ち出づる。
 そして、光源氏との思い出を語り、この後の弔いを頼み、明け方近くに半蔀の内に入る。それは、僧の夢であった。
 これが粗筋ですが、多くの和歌や詩句が使われ、上品な曲になっていると思います。
 光源氏との思い出には、喜びがあります。今、僧が供養をする事で、昔源氏が、夕顔の宿に仮寝した時、隣から、吉野の御嶽精進していた者が、南無、当来導師、弥勒仏と唱えていた事を思い出し、そぞろに涙を流します。昔が恋しいのでしょう。
 又、忘れられない思い出は、源氏が初めてこの宿を見つけた時の事で、源氏が惟光に、あの花(夕顔)を折れと言ったので、夕顔が、端を焦がした白き扇に花を乗せて参らせた為、それが逢い逢う契りになった事が嬉しかったと言います。そして源氏が、「折てこそそれかとも見め、たそかれにほのぼの見えし花の夕顔」(折ってこそそれと分かる。夕方の黄昏にほのぼの見るだけでは、よく分からない。私も親しくしないと分からない)と歌を詠んだので、終の宿りを知らせた(契った)ことを語ります。昔と今では夫婦の形態は変わりましたが、恋する女性が美しいのは変わらない事です。又、夕顔の花を「枝も情けなげなんめる花をとて(源氏物語、夕顔の巻)」扇に置いた事も、やさしく上品な心と思います。
 この女性は、夕顔の君の霊とも、夕顔の花の精とも思えます。どちらともはっきりしない事も、返って柔らかく、夢の中の風情があるように思います。
 僧も、又舞台を観る人も、一夜の夢として美しい女性に出会うのでしょう。

平成6年4月29日 第15回長田能